試論:定量化分析
グスタヴ2世アドルフとスウェーデン軍
著:オオタ(@masa0ta)、旗代(@Hatashirorz)
1.目的
ナポレオンは、自分より以前に七人の偉大な指揮官がいたとして、古代以降の筆頭にグスタヴ2世アドルフの名前を挙げたと伝わる。そして彼が成し遂げた軍事改革と彼が率いたスウェーデン軍の赫々たる勝利は、歴史家マイケル・ロバーツをして、軍事革命とまで言わしめ、グスタヴ2世アドルフは「近代軍隊の父」として現代に至るまで揺るがぬ名声を博している。
しかし、最近の研究は、グスタヴの軍事改革の影響を再評価する傾向にある。実際のところ、彼が創始したとされてきた「改革」の数々は、突然に生まれたものではなく、それまでの軍事的発展と試行錯誤の文脈の中で語られるべきものであり、あるいは単なる誤解でしかないものすらも多く含まれていた[1]。
だがこれらの研究は、指揮官グスタヴとその軍隊の能力を否定するものでは決してない。たしかに神話の時代は終わった。それでも彼らが三十年戦争の中盤において「スウェーデン期」と呼ばれる一つの時代を作り上げたことは紛れもない事実であるからだ。
本稿では軍事オペレーション(軍事OR)の内でも、大規模な軍団の会戦を分析する交戦理論の一つとして知られる定量化判定モデル(QJM:Quantified Judgement Model)を用いて、1630年代前半におけるグスタヴ2世アドルフと彼が鍛え上げたスウェーデン軍の能力を分析し、定性的な評価に定量化された指標を付与する。
2.利用する戦史データ
本稿を記述する上において、その交戦実績のデータは極めて重要である。しかし近世の戦争における兵数や損耗の記録は種々雑多であり、信頼性を欠いている。三十年戦争の各交戦においても例外ではない。そのため本来であれば、分析者本人が史料を詳細に検討し、真値を、少なくとも分析者本人が確信できる真値を決定する必要がある。だが、それらの仕事は筆者の手に余るものであり、ここでは既に成し遂げられている以下の研究結果を用いて数値データとすることとした。
1. Guthrie, William P. Battle of the Thirty Years War From White Mountain to Nordlingen, 1618-1635. London: Greenwood Press, 2002.
2. Guthrie, William P. The Later Thirty Years War: From the Battle of Wittstock to the Treaty of Westphalia. London: Greenwood Press, 2003.
3.定量化判定モデル(QJM)について
定量化判定モデル(以下、QJM)はアメリカ陸軍出身のトレヴァー・N・デュピュイ(Trevor N. Dupuy)により提唱された大規模な会戦の分析を主眼とする交戦理論である。これは交戦理論として一般に知られているランチェスター・モデルと異なりクラウゼヴィッツの概念を定式化することで交戦を定量化したモデルである。
定性的な観測結果を基礎としていることから軍事ORの世界では評価が低い傾向にあるが、分析の前提条件がランチェスター・モデルの1次則と2次則の中間に位置し、損耗率が高い近世の会戦においては、最も適切な理論であると考える。以下にその概念式を示す[2]。
P=S×V×Q
(P:相対的実効戦力。S:戦力。V:戦場要素係数。
Q:軍の質、相対的戦闘効率CEVとして示される)
4.戦力Sの計算
QJMでの戦力計算には、大隊以上の単位で構成される多兵種の軍の戦闘能力を比較する際に提唱されている火力評点(firepower score)アプローチの概念が採用されている。これは合成型ランチェスター・モデルやアメリカ軍のTACWAR等でも採用されている概念で、各武器の能力を、各モデルにより定められた基準に従い数値化する考えである。
以下に近世におけるSの式を示す。これは各々の武装戦力値(W:Weapons Effectiveness)に、その兵種によって各々に定められている係数rを掛けた値の総和により算出される。
S=Wi×ri+Wc×rc+Wg×rg
(添え字i:歩兵 添え字c:騎兵 添え字g:砲兵)
そして、この武装戦力値Wは、理論致死指数(TLI: Theoretical Lethality Index)と、運用致死指数(OLI:Operational Lethality Index)、そして単位兵力あたりの戦域を示す軍の分散要素(Di:Dispersion factor)を用いて、以下の式で表現される[3]。
TLI=射撃速度×威力範囲×殺傷効果×射程要因×正確性×信頼性
OLI=TLI/Di
W=N×OLI
Di:100,000名が展開するのに必要な面積(km2) N:兵数、砲数
理論致死指数TLIは1平方メートルに敵兵士1名が分布するという非現実的な想定下における兵器の能力値を示し、戦場の大きさを考慮していない理論値である。そのため、単位兵力あたりの分布を示すDiを用いて運用致死指数OLIを算出している。
本解析で用いた三十年戦争における長槍、騎兵用の剣、マスケット銃、短銃、大砲の理論致死指数TLIを表1に示す。
表 1 理論致死指数TLI[4]
そして、Diについては会戦地図から概算の布陣面積を算出して、100,000名であった場合の面積に換算した。その結果、本稿が取り扱う戦場においてはDi=2~8を得た。また、デュピュイは各時代の平均値を算出しており、これを表2に示す。今回実施した会戦地図からの各概算値とデュピュイによる17世紀の平均値は概ね合致するものであった。
表 2 分散要素Di[5]
5.戦場要素係数Vについて
戦場要素係数Vは戦場の変動要素であり、大きく分けて環境要素、人的要素、運用要素の3つがある。デュピュイが提唱した要素の一覧を表3に示す。これはQJM手法の最も重要な特色であり、地形や天候、季節といった分かりやすい要素のみならず、クラウゼヴィッツが戦争を理解する上で決して疎かにしてはならないとした精神的要素や「戦場の霧」をモデル化するために導入された係数である。
当然のことながら、これらの係数は両軍に共に等しい値とはならない。例えば地形では守るに適した地形は、攻めるには難しい地形となるからである。人的要素、運用要素については例を挙げるまでもないだろう。多くの場合、これらの係数は0.1~2.0の間の数値が用いられる[6]。
表 3 戦場要素係数[7]
6.相対的戦闘効率CEVの計算
QJMにおいて、CEVは軍の質が戦闘結果に与える影響を示す値であり、理論上の戦力pに対する戦果の大きさの比を示すものである。CEVの式を以下に示す。添え字のA,Bは各軍(A軍、B軍)を示す。
CEVA=(pB/pA)/(RB/RA) CEVB=1/ CEVA
p=S×V
R=MF+ESP+Ecas
p:理論戦力(兵力と戦場要素係数のみを考慮した場合の戦力)
MF:任務達成度(任務をどれだけ達成したのかを示す値。1~10の値を取る)
ESP:獲得面積効率(獲得した地域面積の比率)
Ecas:損耗効率(人的損耗の比率)
この式は、理論戦力比と戦果比が同等であればCEV=1.0となることを示しており、それは戦力比に見合った戦果を挙げたことを意味する。そのためCEV<1.0となれば理論戦力比に見合わない戦果しか挙げられなかった、つまり戦力を無駄に用いた効率の悪い(質の悪い)戦いをしたことを示す。逆にCEV>1.0は理論戦力比以上の戦果を挙げたことを示すので、戦力を効率よく用いた質の良い戦いをしたことになる。このCEVは敵側を見た場合は逆数となるが、注意しなければならないのは、相対値であるから視点を固定してどちらかにCEVを掛けて相対的実効戦力Pを算出する場合、もう一方のCEVは1.0として扱わねばならないということである。
デュピュイの調査に従えば西部戦線のドイツ軍のW.W.IにおけるCEVは1.0~1.6、W.W.IIでは1.0~1.5であり、両大戦の平均CEVは1.2程度となる[8]。これは多くの場合ドイツ軍が、平均して数的劣勢でありながらも戦力差を覆してきたことの証左であろう。
7.本稿の考察対象
今回考察の対象とした戦いは、三十年戦争スウェーデン期と呼ばれる時代において行われた五つの戦いと、フランス・スウェーデン期の戦い一つの、計六つである。以下にその戦いを示す[9]。
1. 第一次ブライテンフェルト会戦(1631年)
2. 第一次レヒ川の戦い(1632年)
3. アルテ・ヴェステの戦い(1632年)
4. リュッツェン会戦(1632年)
5. ネルトリンゲン会戦(1634年)
6. ヴィットストック会戦(1636年)
また他の時代の比較対象として最初にナポレオン戦争における「アウステルリッツ会戦(1805年)」を取り上げる。これはデュピュイがこの戦いをQJMによる考察の対象として用いており、今回の比較における基準になると判断したためである[10]。
8.アウステルリッツ会戦
三十年戦争の戦例を取り扱う前にデュピュイの結果を基にし、比較対象であるアウステルリッツ会戦についてのQJMによる分析と、その内容について説明する。
まずQJMの基本計算値と結果を別紙1に示す。この戦いにおいて兵力劣勢にあったフランス軍は対仏大同盟軍(ロシア・オーストリア連合軍)を相手にして大勝利を収めた。そのため本計算において任務達成度MFはフランス軍を9(大勝利)、同盟軍を2(敗北)としている。また、戦場要素係数Vとして、フランス軍には機動要素1.1と[11]、奇襲要素として1.6を付与した。これは、フランス軍の機動力が同盟軍に対して比較優勢にあった事実と、プラツェン高地への攻撃が実質的な奇襲として取り扱うにたる戦術であったという評価を示す値である。
この結果、理論兵力比SA/SBにおいて0.86と不利にあったフランス軍は、1.76の戦場要素係数を得て、理論戦力比pA/pBにおいて逆に優勢の立場になる。兵力比および戦力比の示す勝敗の目安を表4に示す。しかし、その比率であっても実際の戦果に見合うほどではなかった。戦果比RA/RBが3.69であったからである[12]。
SA/SB=0.86 SB/SA=1.17
pA=SA×VA=240,304 pB=SB×VB=159,834
pA/pB=1.50 pB/ pA=0.67
RA/RB=3.69
CEVA=(pB/pA)/(RB/RA)= (RA/RB)/(pA/pB)=2.46
※上式においてA軍はフランス、B軍は大同盟軍を示す。
表 4 兵力比・戦力比勝敗目安
つまり、他に戦場要素係数Vを増す要素がない限り、同盟軍に対するフランス軍の相対的戦闘効率CEVAは2.46となる。そこでデュピュイは他に要素が存在しないか検討した。デュピュイが注目したのは、ワーテルロー戦役時の経験からウェリントンが述べたとされる「戦場にいるナポレオンは4万の兵の価値がある」という言葉である[13]。しかもこれは、1815年の最盛期を過ぎ、敵が彼のやり方を学んだ後のナポレオンを評価しての言葉であった。そこでデュピュイは、1815年においてすら4万の価値があるとするならば、全盛期のナポレオンと、ナポレオンのやり方を学んでいない敵との間には更に大きな差があったであろうと推定して、戦場にいるナポレオンの価値を兵員6万と見積もった。
こうしてフランス軍の歩兵と騎兵にそれぞれ3万の兵数を足すと、アウステルリッツ会戦におけるフランス軍の理論兵力は1.6となり、新旧の理論兵力比は約1.9となった。よってデュピュイはナポレオンの指揮・統率要素leを1.9と推定した。
そしてナポレオンの指揮・統率要素leを1.9とした場合、同盟軍に対するフランス軍のCEVは1.3となる。これは両大戦時における平均的なドイツ軍のCEV=1.2に近しく、妥当な値であった。
旧SA/SB=0.86→新SA/SB=1.6 ∴(新SA/SB)/(旧SA/SB)≒1.9
CEV(指揮・統率要素考慮せず)=2.46≒1.9×1.3
2.46×75%≒1.9
以上のことから、QJMを用いたアウステルリッツ会戦の分析結果は、ナポレオンと大陸軍の組み合わせが、敵である同盟軍と比較すると驚くほど効率よく戦力を運用して戦果を挙げたこと、そして、ナポレオンの手腕の貢献度合いは、少なくともその内のおよそ四分の三、つまり75%に達することを示した[14]。
では、三十年戦争におけるグスタヴ2世アドルフとスウェーデン軍はどうであったのだろうか?
9.第一次ブライテンフェルト会戦
QJMの基本計算値と結果を別紙2に示す。また前提となる両軍兵数と損耗について表5に示す[15]。皇帝軍の損耗については戦闘後の追撃戦で更に3,400名が追加される場合や、翌日にライプツィヒで降伏した3,000名を加える考えもあるが、これらについては戦闘終結後に発生した損耗であるため除外した。前進距離は会戦図から求めた概算値で、皇帝軍は戦場から潰走したことからマイナス値とした。またA軍を主導側、B軍を受動側[16]としている。
表 5 第一次ブライテンフェルト会戦
この戦いにおいてティリー率いる皇帝軍は大敗を喫した。一方、グスタヴ側にとって、この勝利は重要であったが、アウステルリッツ会戦ほど決定的ではなかった。以上のことから、任務達成度MFは皇帝軍を2(敗北)、スウェーデン・ザクセン軍を8(勝利)とした。
戦場の地形は多少の丘はあったものの「平地-完全な裸地」とし、受動側であるスウェーデン・ザクセン軍側に1.05を付与した。機動要素については、皇帝軍が兵数においても騎兵の数においても劣ることから、QJMの機動要素計算式より皇帝軍に0.9を付与した。最後に季節は主導側に優位な秋の良好な天気であったことから、皇帝軍に1.1を付与した。
その結果、両軍の精神的要素分などを除いた単純な戦場要素係数Vは以下のように求まり、理論戦力比pB/ pAは1.68となって、兵力において優るスウェーデン・ザクセン軍が順当に勝利を収める推算となった。しかし、アウステルリッツ会戦でもそうであったように、この戦力比であっても実際の戦果に見合うほどではなかった。戦果比RB/RAは3.84であり、これにより指揮・統率要素を考慮しないスウェーデン軍のCEVBは2.28となる。
SA/SB=0.63 SB/SA=1.58
VA=1.0 VB=1.05
pA=SA×VA=311,183 pB=SB×VB=524,066
pA/pB=0.59 pB/ pA=1.68
RB/RA=3.84
CEVB=(RB/RA)/(pB/pA) =2.28
※上式においてA軍は皇帝軍、B軍はスウェーデン・ザクセン軍を示す。
ここでグスタヴの能力を示す指揮・統率要素leを1.0~2.0の可変値としてCEVBを計算するとCEV曲線は、図1に示す曲線(図中、士気係数o=1.0)となる。アウステルリッツ会戦におけるナポレオンと大陸軍の標点(図中、▲印)を基準とすると、グスタヴとスウェーデン・ザクセン軍がティリー率いる皇帝軍に対して示した能力は、ほぼ同位置にプロットできることが分かる。
図 1 指揮・統率要素とCEVB(第一次ブライテンフェルト会戦)
また、この戦いにおいてザクセン軍は、砲撃戦後のティリー軍右翼騎兵隊の攻撃に対して殆ど抵抗することなく敗走しており、これを加味すると、初期計算において両軍共に1.0としたスウェーデン・ザクセン軍側の士気要素oを効率低下要因として0.9~0.8とする評価もあり得る[17]。その場合、CEV曲線は図1の破線で示すように上に推移する。つまり、グスタヴとティリーの能力差が、ナポレオンと対仏大同盟軍首脳陣との能力差と同程度であるとしてleを1.7~2.0の範囲にとるならば、CEVBは1.7~1.1となる。これは、ナポレオンの大陸軍と対仏大同盟軍との間には基本戦術において大きな差がなかったのに対して、ティリーが好んだ大規模隊形とスウェーデン軍の機動性と諸兵科協同を重視した隊形の間には根本的な差があったことを考慮すると妥当な値であるだろう[18]。
以上のことから、QJMの計算に従うと、第一次ブライテンフェルト会戦におけるグスタヴとスウェーデン軍の組み合わせは、アウステルリッツ会戦におけるナポレオンと大陸軍の組み合わせに比肩する、あるいは上回るほど効率よく戦果を挙げたと結論づけられる。
10.第一次レヒ川の戦い
QJMの基本計算値と結果を別紙3に示す。また前提となる両軍兵数と損耗について表6に示す[19]。前進距離は会戦図から求めた概算値で、皇帝軍は戦場から整然と退却していることから0.0kmとした。
この戦いは全面会戦ではないため損耗率は両軍共に小さい。しかし、スウェーデン軍が意図した通りに渡河に成功する一方で、皇帝軍は司令官たるティリーが重傷を負い、その後に死亡している。以上のことから任務達成度MFは、皇帝軍を2(敗北)、スウェーデン軍を8(勝利)とした。
表 6 第一次レヒ川の戦い
地形は、レヒ川の存在について初期計算では考慮せず、単に「起伏地-複合地形」として受動側(防御側)である皇帝軍に地形要素1.3を付与した。また皇帝軍は陣地を川沿いに築いてスウェーデン軍を待ち受けていたことから、軍の態勢要素として陣地防御効果1.6を付与した。一方、スウェーデン軍は主導側(攻撃側)であり、総兵数においても騎兵数においても皇帝軍に優っていたことから計算により機動要素1.24を付与し、あわせて攻撃に適した季節であることから季節要素1.1を付与した。
その結果、初期計算における単純な戦場要素係数Vは以下のように求まり、理論兵力比においては倍近い差を付けられていたスウェーデン軍と皇帝軍の差は、1.4倍にまで縮まった。これにより戦果比RA/RBは2.83であったことから、初期計算におけるスウェーデン軍のCEVAは2.1となった。
SA/SB=2.06 SB/SA=0.49
VA=1.24×1.1=1.36 VB=1.3×1.6=2.08
pA=SA×VA=493,707 pB=SB×VB=366,186
pA/pB=1.35 pB/ pA=0.74
RA/RB=2.83
CEVA= (RA/RB)/(pA/pB)=2.1
※上式においてA軍はスウェーデン軍、B軍は皇帝軍を示す。
次にその他の要素について検討する。この戦いにおいてティリーは自軍の歩兵の多くが新兵あるいは民兵の寄せ集めであり、陣地を守るには十分であるが、野戦を挑むには能力不足であることを理解していた[20]。そして、自軍の目的を勝利ではなく敵の攻撃を頓挫させることにおいていた。実際、正面の橋頭堡を巡る戦いにおいて皇帝軍の歩兵と騎兵は良く戦った。最終的な敗北は、皇帝軍の騎兵隊が左翼において逆襲に失敗したことによる。しかしそれでも陣地を守る歩兵隊は最後まで崩れることはなかった。この事実は、採用した戦術により新兵・民兵の士気・練度不足を相殺させていたと評価できる(士気・練度要素o=1.0とする)。
一方、グスタヴはこの戦いでもティリーを上回る手腕を示した。まず、この日の渡河はティリーの意表を突くものであった。しかし、ティリーは直ぐさま上陸部隊に優る兵数でこれを迎撃して、スウェーデン軍の橋頭堡からの如何なる前進も阻んでいる。結局、スウェーデン軍正面の上陸部隊は終日、そこから前進できなかった。よって、奇襲効果は河川における防御効果以下であると評価する(奇襲要素s=1.0とする)。
次いで特に重要なのは、ティリーの眼を正面の橋頭堡を巡る戦いに釘付けにしつつ実施された両翼からの迂回渡河、そして南側からの側撃である。約2,000騎の右翼騎兵隊は妨害を受けることなく南の離れた地点でレヒ川東岸に渡り、橋頭堡を攻める皇帝軍の側面に進出。反撃に出た皇帝軍騎兵隊3,000騎の攻撃を撃退して、この日の戦いを勝利に導いた[21]。これらの事実は皇帝軍側がブライテンフェルトにおいてグスタヴとスウェーデン軍のやり方を学び取っていたとしても、依然としてスウェーデン軍側が質的に優れていたことを示している(CEVA>1.0、グスタヴのle>1.0)。
これらの評価を踏まえて、図2に示した指揮・統率要素とCEVAの関係を見る。その関係は、第一次ブライテンフェルト会戦時におけるザクセン軍の低減率を考慮していない曲線を僅かに下回った。これは以下の式がおおよそ成り立つことを示している。
(ブライテンフェルト時におけるザクセン軍の低減率)≦
(皇帝軍の習熟度による低減率)×(奇襲効果を割り引いた渡河攻撃低減率)
図 2 指揮・統率要素とCEVA(第一次レヒ川の戦い)
また、レヒ川東岸において1.5倍の戦力差をスウェーデン軍騎兵隊が覆していることから、CEVAは1.5を最高値とおくことができると評価できる。一方でCEVAの最低値は、ブライテンフェルト会戦時の指揮・統率要素の推定上限値le=1.9~2.0から1.1となる。但し、その差は、ティリー自身が学んだ結果、当時よりも小さくなることから、CEVAは1.5~1.2の範囲内に収まると評価できる。
以上のことから、QJMの計算に従うと、第一次レヒ川の戦いにおいてスウェーデン軍は、不利な戦場環境において、新戦術による効果が薄れつつある中でも、相対的に優れた戦闘効率を発揮し、グスタヴもティリーに優る能力を示したと結論づけられる。
11.アルト・ヴェステの戦い
QJMの基本計算値と結果を別紙4に示す。また前提となる両軍兵数と損耗について表7に示す[22]。両軍共に前進できなかったことから、前進距離は0.0kmとした。この戦いは全面会戦に至ることなく局地戦で終わってしまったが、グスタヴのドイツにおける不敗神話を傷つける敗北となった。一方で新たに皇帝軍の司令官となったヴァレンシュタインは、意図していた優位な状況下での会戦にまで持ち込むことはできなかったが、新教勢力の伸張を押しとどめて戦局を立て直すという大目的を達成することができた。以上のことから任務達成度MFは、スウェーデン・新教軍を3(小敗北)、皇帝軍を7(実質的な勝利)とした。
表 7 アルト・ヴェステの戦い
地形は、「起伏地-複合地形」として、受動側(防御側)である皇帝軍に地形要素1.3を付与した。また皇帝軍は強力な陣地を築いてスウェーデン軍を待ち受けていたことから、軍の態勢要素として陣地防御効果1.6を付与した。
一方、スウェーデン・新教軍は主導側(攻撃側)であり、総兵数においても騎兵数においても皇帝軍に優っていたことから計算により機動要素1.14を付与し、季節要素としても1.1を付与した。しかし、二度目の攻勢時は天気が下り坂であったことから、攻撃側には不利な状況となった。よってスウェーデン・新教軍側に低減効果として0.95を付与した。
その結果、初期計算における単純な戦場要素係数Vは以下のように求まり、理論兵力比SA/SBにおいては互角で勝敗不明の状況であったが、地形と陣地の恩恵を受けた皇帝軍が理論戦力比pB/ pAにおいて優勢を確保する結果となった。戦果比RB/RAは1.99であったことから、初期計算における皇帝軍の相対的戦闘効率CEVBは1.24となった。
SA/SB=1.09 SB/SA=0.92
VA=1.14×0.95×1.1=1.19 VB=1.3×1.6=2.08
pA=SA×VA=244,716 pB=SB×VB=392,427
pA/pB=0.62 pB/ pA=1.60
RB/RA=1.99
CEVB=(RB/RA)/(pB/pA) =1.24
※上式においてA軍はスウェーデン軍、B軍は皇帝軍を示す。
次に交戦詳細から他の要素を推算する。この戦いにおいて兵站に不安を抱えるスウェーデン・新教軍は皇帝軍の陣地に対して正面から攻撃を行わざるを得ず、そのまま撃退された。グスタヴが手にした情報は間違っており、その作戦計画は希望的観測を基としていた [23]。
まずレドニッツ川を越えて皇帝軍陣地の東側に向けて行われた9月1日の最初の攻勢は、皇帝軍陣地からの砲火により破砕された。
次いで9月3日に行われた北側に回り込んでの二度目の攻勢は、皇帝軍の陣地の中でも最も強固な場所への突進する結果となり撃退される結果に終わった。この攻勢は、皇帝軍が退却中であるという誤報を基にしていたという説と、誤報であることは承知で、西側で待ち構える皇帝軍と退路に危険を残したまま戦いに及ぶよりも、予期せぬ箇所への急襲により皇帝軍の陣地と物資を押さえようとしたのだという説があるが、どちらにせよグスタヴが敵情判断を間違えたことに変わりはない。
また、スウェーデン・新教軍はかつてない規模に膨れ上がっていたが、それにより兵站に問題を抱え、全体の規律低下やグスタヴの指導力低下を招いていた。
一方でティリーに代わり皇帝軍の司令官となったヴァレンシュタインは初回の攻撃にあっては陣地効果を活用し戦力を効率的に用いた。二度目の交戦となった9月3日の戦いにおいては、陣地の最も脆弱な西側に敵は回り込んでくるだろうと想定し、主力を西側に出して会戦に備えたが、予想に反してスウェーデン・新教軍が陣地北方に現れたのを見ると、これが陽動でないことを確認した上で増援を送り込んで敵を撃退した。グスタヴの動きを読み誤るという失敗を犯しているが、陣地を疎かにすることなく備えていたため大事には至らなかった。
以上のことを評価すると、この交戦におけるグスタヴとヴァレンシュタインの間の能力差はティリーほどではなく、情報と兵站の弱みがスウェーデン軍の戦闘効率を相殺したと推定できる。そこで以下のように三つの要素について算出した。
① 指揮・統率要素:le=1.3
グスタヴとヴァレンシュタインの差は、グスタヴの情報を既に入手して学んでいた分だけ、同じ陣地防御でありながら失敗したティリーとの差ほどではなかったと判断できる。また、兵数増加により逆にグスタヴの指導力が相対的に低下していたことも加味する必要がある。よってレヒ川の戦いにおいて最終的に算出されたグスタヴのle=1.4~1.8よりも低い値となると評価した。
② 兵站・情報要素:b=1/(1.5~1.2)=0.67~0.83≒0.75
スウェーデン・新教軍の兵站・情報の問題が陣地への正面攻撃に繋がったことはあきらかである。よって、この要素がレヒ川の戦いにおいて最終的に算出したスウェーデン軍の相対戦闘効率CEV=1.5~1.2を相殺したと判断し、その逆数とした。
③ 奇襲要素s=0.9
初回の攻勢時においてグスタヴは前日からの攻勢準備射撃の効果を過信して、渡河中に砲撃を受けて敗北した。また二回目の攻勢時には、皇帝軍の不意を突こうとしたか、後退中の後衛を叩くことを企図して失敗した。これは逆にスウェーデン・新教軍側にとって奇襲を受けるのと同じ効果があったと評価できる。よって部分的な奇襲を受けたと同じ効果が発生したと査定した。
この三つを加味した皇帝軍のCEVBの計算結果は次のようになる。
VA=1.14×0.95×1.1×0.75×1.3×0.9=1.04 VB=1.3×1.6=2.08
CEVB=(RB/RA)/(pB/pA) =1.1
QJMの計算結果は、両軍がほぼ同率の戦闘効率で戦い、皇帝軍が理論戦力比に則った結果を挙げたことを示している。つまり、ヴァレンシュタインは、これまでの戦場で示されてきたグスタヴの戦術能力とスウェーデン軍の質的優勢を、兵站を確保し戦場を選定する戦略手腕と、陣地防御という戦術を用いて打ち消し、集めた戦力に見合った勝利を手にしたということができる。
12.リュッツェン会戦
QJMの基本計算値と結果を別紙5に示す。また前提となる両軍兵数と損耗について表8に示す[24]。皇帝軍の歩兵数からはパッペンハイム将軍麾下の歩兵隊は除いている。これは騎兵隊とは異なり、戦場到着時には既にヴァレンシュタインが退却を決断していたからである。また、皇帝軍は秩序を保って退却したことから、前進距離は皇帝軍に関しては0.0kmとした。
表 8 リュッツェン会戦
一方で任務達成度MFについては、グスタヴの戦死と皇帝軍の退却という二つの交戦結果により査定が難しい問題となる。事実、この戦いの勝者については後世の評価も定まらず、スウェーデン軍の勝利とする意見もあれば引き分けとする意見もある。グスタヴの戦死を以て、スウェーデン軍の戦術的勝利、戦略的敗北とする考えもある[25]。そこでまず戦場を獲得したスウェーデン軍の勝利と判定し、スウェーデン軍のMFを6(限定的な勝利)、皇帝軍を4(惜敗)とする。そして、その後、両軍共に5(引き分け)とした場合の差を見ることにより、その差が如何なるものであるかを考察する。
本計算において地形は、「平地-複合地形」として、受動側(防御側)である皇帝軍に地形要素1.2を付与した。また皇帝軍はスウェーデン軍の攻勢に対して、風車の丘や簡易的な塹壕などの防御態勢を以てこれを迎え撃ったことから、軍の態勢要素として応急防御効果1.3を付与した。一方、主導側(攻撃側)のスウェーデン軍については、霧の出ていた気候要素を加味して気候要素0.9を付与すると共に、総兵数においても騎兵数においても劣っていたことから計算により機動要素0.95を付与した。
その結果、初期計算における単純な戦場要素係数Vは以下のように求まり、理論兵力比SA/SBにおいてはスウェーデン軍優勢の結果となりながら、地形と陣地、気候の恩恵を受けた皇帝軍が理論戦力比pB/ pAにおいて優勢を確保する結果となった[26]。しかし結果は、違った。
SA/SB=1.24 SB/SA=0.80
VA=0.95×0.9=0.86 VB=1.2×1.3=1.56
pA=SA×VA=121,881 pB=SB×VB=178,144
pA/pB=0.68 pB/ pA=1.46
RA/RB=1.88(MFA=6, MFA=4の場合)
CEVA= (RA/RB)/(pA/pB)=2.75
※上式においてA軍はスウェーデン軍、B軍は皇帝軍を示す。
そこで最初に、グスタヴおよびベルンハルトの指揮・統率要素leについて評価を行う。アルト・ヴェステではグスタヴとヴァレンシュタインの差として、le=1.3と置いた。しかし、一方でアルト・ヴェステは陣地防御戦であり、野戦における全面会戦ではなかった。加えてリュッツェンにおいてヴァレンシュタインはパッペンハイム軍を分離させてしまった状態で交戦を開始せねばならないという判断ミスをしている。
一方でスウェーデン側を見ると、交戦途中でグスタヴは戦死し、全体指揮はベルンハルトに任されている。しかしベルンハルトは、この戦いで見事に全軍の指揮を受け持ち、統率の乱れを生じさせなかった。ネルトリンゲンにおいて敗北してはいるものの、彼が当代一流の軍人であったことは、その後の戦歴からも証明されている。
これらの事実と、第一次ブライテンフェルト会戦におけるグスタヴとティリーの差も考慮すると、スウェーデン軍首脳陣とヴァレンシュタインの能力差はアルト・ヴェステ時よりも大きいと評価できるため、le=1.4~1.7と推算できる[27]。
この数値を前提として、スウェーデン軍が限定的な勝利を収めたと評価する場合について考察する。この場合、戦果比RA/RBは1.88となり、スウェーデン軍の暫定的なCEVAは1.92~1.62となる。
RA/RB=1.88
VA=0.95×0.9×1.4~1.7=1.26~1.53 VB=1.2×1.3=1.56
CEVA= (RA/RB)/(pA/pB)=1.92~1.62
一方、レヒ川の戦いにおいて最終的に算出された対皇帝軍のスウェーデン軍CEVが1.2~1.5であることから、一般的なスウェーデン軍CEVAを1.3と置くことができる。つまり、暫定的なCEVAと、実績から求まるCEVAの間には1.52~1.25の差があった。
これをどのように説明すれば良いだろうか? 一つの説明として、以下の計算結果を示す。これは計算値と実績値の差が、グスタヴの戦死/負傷の情報によりスウェーデン軍の戦闘意欲が向上した結果であったことを示すものである。
クラウゼヴィッツは戦争において精神的要素を無視してはならないとする。そして、この戦いにおいてスウェーデン軍将兵は明らかに通常とは異なる精神状態にあった。もちろんグスタヴ戦死の報がどれほどスウェーデン軍兵士たちに知れ渡っていたのかについては様々な意見がある[28]。しかし、上級指揮官たちは間違いなく国王戦死の情報を掴んでいたし、兵士たちにおいてもグスタヴが少なくとも重傷を負って戦場から姿を消したこと、そして指揮官たちの常ならぬ意欲に気がついたことだろう。一瞬のパニックの後、彼らは皆、同じ種類の決意を持ち、そのような決意は軍隊精神の発露に大きく影響を及ぼしたと推定される。
そこで、対皇帝軍のスウェーデン軍CEVAが実績値1.3となるように士気・練度要素oを定めるとスウェーデン軍の戦場要素係数は表9のようになる。
表 9 リュッツェン会戦におけるスウェーデン軍の戦場要素係数(MFA =6)
これを踏まえた上で、次にこの交戦が引き分けであったと評価する場合について考察する。これは、グスタヴ戦死の影響がスウェーデン軍のMFAを6から5に引き下げ、逆に皇帝軍のMFBを4から5に引き上げたと見なす考えである。この場合、戦果比RA/RBは1.48となる。このとき、スウェーデン軍首脳陣のleを1.4~1.7、CEVAを実績値1.3とすると、スウェーデン軍の戦場要素係数は表10のようになる。
結果を見ると、MFを両軍共に5とした結果、士気高揚効果は1.0に近づくことが示されている。また特に指揮・統率要素が大きい、つまりグスタヴの価値が高いほど1.0に近似するともいえる。
表 10 リュッツェン会戦におけるスウェーデン軍の戦場要素係数(MFB =5)
これはグスタヴ戦死による損失を無視し(MFA =6)、交戦実績からスウェーデン軍CEVA=1.3を規定値とすると、戦死に起因する士気高揚効果は1.5~1.3となるが、戦死による損失を含んで戦果比を再計算すると(MFA =5)、士気高揚効果の大部分は戦死損失によって相殺されてしまうということを示している。
以上のことから、QJMは将兵の戦意高揚をある程度の範囲で定量化することに成功しており、その結果、原因(戦死)と結果(士気高揚)の因果関係は等式で表現される。これは、リュッツェン会戦における勝敗判定を巡る意見の相違に対して、一つの視座を提供するものであろう。
(戦死による任務達成度の低下)≒(士気高揚による戦場確保)
13.ネルトリンゲン会戦
QJMの基本計算値と結果を別紙6に示す。また前提となる両軍兵数と損耗について表11に示す[29]。この戦いにおいて新教軍(ハイルブロン同盟軍)と共に戦ったスウェーデン軍は壊滅的な損害を被り、一つの時代が終わったことが明らかとなった。勝利した皇帝は旧教および新教の多くの帝国諸侯と間でプラハ条約を取り結び、戦争の一時的勝利を獲得した。以上のことから任務達成度MFは、スウェーデン・新教軍を2(敗北)、皇帝軍を8(勝利)とした。また、戦場から潰走したスウェーデン・新教軍の前進距離はマイナス値とした。
表 11 ネルトリンゲン会戦
地形は、「起伏地-複合地形」として、受動側(防御側)である皇帝軍に地形要素1.3を付与した。また皇帝軍はスウェーデン・新教軍の攻勢に対して、十分な防御態勢を以てこれを迎え撃ったことから、軍の態勢要素として防御効果1.5を付与した。一方、主導側(攻撃側)のスウェーデン・新教軍については、砲数の優越分だけ自軍が活用できる馬の数が僅かに多い計算となるため、機動要素として1.05を付与した。また軍の機動に適した季節であるため、攻勢側であるスウェーデン・新教軍に季節要素1.1を付与した。
その結果、初期計算における単純な戦場要素係数Vは以下のように求まった。理論兵力比SA/SBにおいて僅かに劣勢の結果となったスウェーデン・新教軍は、追加要素として守るに易い地形の効果と攻勢を予期した準備により皇帝軍の戦力が倍加されたことにより、理論戦力比pB/pAにおいて差を広げられ、圧倒的な敗勢の立場に追いやられた。しかしスウェーデン・新教軍が被った実際の損害は、更にその倍であった。
SA/SB=0.85 SB/SA=1.18
VA=1.05×1.1=1.15 VB=1.3×1.5=1.95
pA=SA×VA=160,500 pB=SB×VB=319,924
pA/pB=0.5 pB/ pA=1.99
RB/RA=4.0
CEVB=(RB/RA)/(pB/pA) =2.01
※上式においてA軍はスウェーデン・新教軍、B軍は皇帝軍を示す。
これまでの計算結果が示してきた通り、介入当初からスウェーデン軍は精強を誇り、新機軸の戦術効果も相まって、対皇帝軍比で常にCEV=1.3程度の効率を発揮してきた。加えてグスタヴを筆頭とした優秀な首脳陣は、遺憾なくその指導力と統率力、戦術的手腕を示したため、多くの場合で戦力比以上、ないしは戦力比通りの結果を手にしてきた。しかし、この戦いにおいて、これらの効果は殆ど見受けられない。彼らの戦い振りは拙劣であり、首脳陣に協調性は見られなかった。
特に、この交戦においてスウェーデン軍司令官ホルンと新教軍司令官ベルンハルトが、互いに協力し合えなかったことは注目に値する。妥協案に基づいて彼らはバラバラに戦い、そして無謀な攻撃に失敗し、援護するべきところを援護せずに敗れ去った。一方、皇帝軍の首脳陣は協調を理解していた。スウェーデン・新教軍がその「最悪の事例」を示したとするならば、皇帝の嫡男ハンガリー王フェルディナントおよびスペイン王の末弟フェルナンド枢機卿の二人の指揮官と二つのハプスブルク軍は、その「最良の事例」をこの戦いで示した [30]。
つまり、この戦いで影響の大きい戦場要素係数を更に求めるとするならば、それは両軍の指揮・統率要素sにおける違いとなる。スウェーデン・新教軍側の指揮・統率要素は、二人の指揮官がそれぞれまるで違う戦いをしているかのようであったことから、一致して交戦に対処した皇帝軍と比較すると、ちょうど半分になることが単純に推測できる。そしてsA=0.5とするならば両軍のCEVは1.0となる。
これは両軍が戦力比通りに戦果を挙げたことを示しており、それぞれの戦線においては善戦したスウェーデン・新教軍についても、彼らに劣らぬ戦い振りで勝利を手にした皇帝軍についても、等しく適切に評価できていると判断する。
この計算結果が示していることは、まさしくマキャヴェッリが述べている通り、「一軍の指揮官は、一人であるべきである。(中略)二人の優れた人物を派遣するよりも、一人の凡人を派遣したほうが、はるかに有益である」[31]という指摘の正しさであり、この点に関し、皇帝軍も同じ愚を犯しているが、互いに張り合うことなく「一人の凡人」並みの力を発揮したといえるだろう[32]。
14.ヴィットストック会戦
QJMの基本計算値と結果を別紙7に示す。また前提となる両軍兵数と損耗について表12に示す[33]。この戦いは決して大規模な会戦ではなかったが、ドイツにおいて地歩を失いかけていたスウェーデンにとって、自信を取り戻す切っ掛けとなる戦いであり、三十年戦争後半期に至る一つの転換点となった。
スウェーデン軍の前進距離は会戦地図から5.0kmと設定し、敗北した皇帝軍は辛うじて当日真夜中までは戦場に留まっていたことから0.0kmとした。また、スウェーデン軍にとって本会戦の勝利は起死回生の出来事であり、皇帝軍にとってはネルトリンゲン以降の優位を完全に失う契機となる敗北であった[34]。以上のことから任務達成度MFは、スウェーデン軍を8(勝利)、皇帝軍を2(敗北)とした。
表 12 ヴィットストック会戦
地形は、「起伏地-複合地形」として、受動側(防御側)である皇帝軍に地形要素1.3を付与した。また皇帝軍は丘の上で塹壕を掘り、荷馬車を連ねて防御態勢を整えていたことから応急防御効果1.3を付与した[35]。一方、主導側(攻撃側)のスウェーデン軍については、騎兵と砲数の優越分だけ機動力が上であるとして、計算から機動要素1.07を付与した。また軍の機動に適した季節であるため、攻勢側であるスウェーデン軍に季節要素1.1を付与した。
その結果、初期計算における単純な戦場要素係数Vは以下のように求まった。理論兵力比SA/SBにおいて勝敗不明となる差は、有利な地勢と防御効果も相まって理論戦力比pB/pAにおいては皇帝軍に軍配が上がる戦力差となった。
しかし結果は真逆となる。戦果比RA/RBは3.24であり、初期計算におけるスウェーデン軍のCEVAは4.35となった。
SA/SB=1.07 SB/SA=0.93
VA=1.07×1.1=1.17 VB=1.3×1.3=1.69
pA=SA×VA=67,061 pB=SB×VB=90,126
pA/pB=0.74 pB/ pA=1.34
RA/RB=3.24
CEVA= (RA/RB)/(pA/pB)=4.35
※上式においてA軍はスウェーデン・新教軍、B軍は皇帝軍を示す。
これは極めて高い戦闘効率であり、他に何らかの戦場要素係数があるのではないかと推測される。しかし当時のスウェーデン軍は、依然として皇帝軍に比べての質の高さを評価されてはいたものの、グスタヴ当時の精強さを失っていた。
一方で代わりに指揮・統率要素に目を向けることはできる。例えばスウェーデン軍指揮官であるバネル、そしてその配下にあったレズリー、トルステンソン、キングらは、間違いなく皇帝軍の指揮官ハッツフェルト等よりも能力的に優れていた。しかし、彼らスウェーデン軍首脳陣の指揮・統率要素を、ナポレオン並みの値(le=1.9)としてもCEV Aは2.18となり、第一次ブライテンフェルト会戦当時の精強なスウェーデン軍の最大推定値1.7を上回ってしまう。しかも、スウェーデン軍の首脳陣は、分進する各縦隊の協調に殆ど失敗しており、予備縦隊を指揮したフィッツトゥムは、バネルへの反感から意図的に前線への進出を遅らせ、主力部隊を危機に陥れたといわれている[36]。以上のことから相対値であったとしても、leを1.9まで高めることは過大評価となると判断する。では、他にどの様な説明が成り立つのであろうか?
ここで注目するべきなのは軍の態勢(交戦形態)である。これまで攻撃側に対してこの値は常に1.0であった。しかし正面攻撃からの突破あるいは側面攻撃、ないしは陣地防御などであったこれまでの事例とは異なり、この会戦においてバネルは大胆な戦術的分進合撃による包囲機動で挟撃(部分包囲)に成功した[37]。両翼包囲(完全包囲)を成し遂げた古代のカンネーを例に取るまででもなく、包囲が最も戦闘効率が高まる交戦形態であることは戦史が証明するところである[38]。もちろん、バネルが企図した軍を分割しての機動は大いなる賭けであり、ハッツフェルトが有能であれば、恐らくスウェーデン軍の包囲機動は失敗し、各個撃破されていたであろう。しかし、バネルは賭けに勝った。その配当は莫大であった。
近世ヨーロッパの戦場における包囲効果を、本会戦の一例だけで定量化することはできない。しかし、今回の計算の定量化が的はずれなものでないとするならば、少なくとも包囲に成功した場合、戦力を倍加する効果が発生したと評価できるだろう。
15.結論
本稿において計算した結果を表13と図3に示す。指揮・統率要素や士気・練度要素を考慮しない場合においても、第一次ネルトリンゲンにおける敗戦を除いて、スウェーデン軍の皇帝軍を相手としたときの相対的戦闘効率は、1に近似するか、1以上となっている。また図3の第四象限に標点がないことは、戦力劣勢のとき、皇帝軍が戦闘効率によって戦力差を覆すことができなかったことを示している。逆に第二象限の標点が示す通り、スウェーデン軍は二つの事例において戦力差を戦闘効率により覆した。
これらの結果を様々な事情を無視して一般化のために平均をとると、指揮官の能力や精神的要素を加味した場合、スウェーデン軍の相対的戦闘効率は対皇帝軍比で2倍、軍の精強さのみを考えた場合、対皇帝軍比で1.5~1.3倍となる。
以上がQJMの手法に基づき計算された、戦史が述べるところのグスタヴの才能とスウェーデン軍の精強さを示す定量値である。
表 13 スウェーデン軍の理論戦力比と戦果比、および相対戦闘効率
図 3 理論戦力比と戦果比(▲:アウステルリッツ参考点)
謝辞:
本稿を作成するにあたり、定量化判定モデルを教えて頂きました「安全保障学を学ぶ」主催者、武内和人様(@Kazuto_Takeuchi)に感謝の意を表します。
本稿で用いられたQJMや火力評点モデル、また、その他の様々な政治、軍事に関する事柄についての紹介は以下の、氏が運営されているブログ記事にて読むことができます。
学術ブログ「安全保障学を学ぶ」(https://militarywardiplomacy.blogspot.jp)
[1] 日本語の書籍においては以下を参照すること。リチャード・ブレジンスキー、小林純子訳『グスタヴ・アドルフの騎兵』(新紀元社、2001年); リチャード・ブレジンスキー、小林純子訳『グスタヴ・アドルフの歩兵』(新紀元社、2001年); オオタ、旗代「18世紀初頭までの騎兵戦術の変容」『近世近代騎兵合同誌』サークル騎兵閥(ひかすけ)編(同人誌、2017年)。
[2] T. N. Dupuy, Numbers, Predictions and Wars, Revised Ed (Fairfax: Hero Books, 1985); T. N. Dupuy, Understanding War: History and Theory of Combat (New York: Paragon House Publishers, 1987).; 飯田耕司『戦闘の科学 改訂 軍事ORの理論』(三恵社、2010年)392–408。特に『改訂 軍事ORの理論』は日本語での概要が記載されているため理解のため一読を推奨する。また、理論の詳細については、デュピュイの原著を参照すること。
[3] 以下において使われている各因子の説明や導出の詳細説明は別稿を用意する予定であり、本稿では省略した。
[4] Dupuy, Numbers, Predictions and Wars, 26. デュピュイは「白兵戦」「騎兵刀」「騎兵用ピストル」「12ポンド砲(17C)」について著書で算出しており、それ以外のTLIは兵器の能力とデュピュイの値を比較し導出した。
[5] Ibid., 28–29; Dupuy, Understanding War: History and Theory of Combat, 84.
[6] 以後で利用する各係数の基本値は以下を参照すること。Dupuy, Numbers, Predictions and Wars, 228–31.
[7] Dupuy, Understanding War: History and Theory of Combat, 67.
[8] Dupuy, Numbers, Predictions and Wars, 104–5.
[9] 本稿においてはそれぞれの戦いの詳細については記述しない。詳細を知りたい場合は各書籍を参照すること。
[10] Ibid., 151–54; Dupuy, Understanding War: History and Theory of Combat, 267–69.
[11] 機動要素は計算により算出される。以下を参照のこと。Dupuy, Numbers, Predictions and Wars, 36.
[12] 戦果比の式はWW.IIの実績から戦果Rと理論戦力比p/pから算出された一般戦闘近似式である。以下を参照のこと。Ibid., 60–61. なお一般戦闘とはCEV=1となる戦闘を示す。
[13] ナポレオン自身は自らの価値を十万の兵に等しいと述べている。Digby George. Smith, The Decline and Fall of Napoleon’s Empire : How the Emperor Self-Destructed (London: Greenhill Books, 2005), 231.
[14] なお、モデルの正確性から細かい数値の大小は意味のないものと判断している。
[15] William P. Guthrie, Battles of the Thirty Years War: From White Mountain to Nordlingen, 1618-1635. (London: Greenwood Press, 2002), 20–23, 35–37.
[16] 以降、全ての考察にて同様とする。
[17] 例えば1982年のレバノン戦争において、6月10日以降のシリア軍の士気評価として0.9をデュピュイは用いている。Dupuy, Understanding War: History and Theory of Combat, 248.
[18] ブライテンフェルトにおいてティリーが大規模なスペイン方陣(いわゆる一般に言われるところのテルシオ隊形)を用いていたかについては異論がある。しかしスペイン方陣でなくとも、ティリーが大規模な歩兵隊形を好んだことに疑いはない。例えばスウェーデン軍の副司令官ホルン将軍のブライテンフェルトにおける記錄では「4個の巨大なスペイン大隊形(16個連隊で構成)が右翼にあった騎兵隊を伴って」と表現されている。ブレジンスキー『グスタヴ・アドルフの騎兵』36頁;Laurence Spring, The Bavarian Army during the Thirty Years War, 1618-1648 : The Backbone of the Catholic League (West Midlands: Helion and Company, 2017), 105; Guthrie, Battles of the Thirty Years War: From White Mountain to Nordlingen, 1618-1635., 10.
[19] Ibid., 181–82.
[20] Ibid., 167.
[21] Ibid., 168.
[22] Ibid., 203–7, 220–23.
[23] Ibid., 189–93.
[24] Ibid., 223–26.
[25] Ibid., 218–19.
[26] 計算上、パッペンハイムの騎兵戦力を含めているが、実際は途中からの参加となるため、この差はもう少し縮まるだろう。
[27] 但し手厳しい意見をのべるなら、この会戦においてヴァレンシュタインもグスタヴもベルンハルトも、相応に手ひどいミスをしている。ヴァレンシュタインは会戦計画において受動的に過ぎたし、グスタヴの霧の中での作戦指導は無謀だった。ベルンハルトにおいても会戦中盤までの無謀な攻撃により戦力を浪費している。Ibid., 217. しかし、本稿におけるあらゆる係数は相対値であることを忘れてはならない。
[28] Ibid., 215.
[29] Ibid., 265–68, 284–89.
[30] Ibid., 275.
[31] 塩野七生『マキアベッリ語録』(新潮社、1992年)123–24頁。
[32] もっとも、マールバラ公とオイゲン公のような卓越した二人の指揮官による卓越した協調という事例も存在する。問題は協調する意識とその段階にあるのだろう。
[33] William P. Guthrie, The Later Thirty Years War: From the Battle of Wittstock to the Treaty of Westphalia (London: Greenwood Press, 2003), 48–51, 61–68.
[34] もっとも、この戦いに参加したモンテクッコリは決定的な戦いではなかったと定義しており、MFを7:3程度にしても良いかもしれない。Ibid., 57.
[35] しかし皇帝軍の陣地は北方正面のみであり、ハッツフェルトが両翼の防護を疎かにしたことは致命的な誤りであった。
[36] Ibid., 56–57.
[37] この会戦においてバネルは予備を含めた4個縦隊で両翼包囲を狙ったといわれている。Ibid., 52.
[38] 近世ヨーロッパの野戦における包囲の戦例は余り多くないが、例えば両翼突破からの両翼包囲に成功したフラウシュタットの戦いでは、スウェーデン軍がおよそ2倍の敵を殲滅している。