ブエン・レティーロ宮殿「諸王国の間」の三十年戦争スペイン戦勝画
ブエン・レティーロ宮殿「諸王国の間」の三十年戦争スペイン戦勝画 /ことよ
* 3/24(土)にプラド美術館展鑑賞してきました。「ジェノヴァ救援」について、末尾に追記しています。
2018年は三十年戦争400年と同時に、日本にではちょうどプラド美術館展 1)が開催されていることもあり、プラド美術館所蔵の三十年戦争戦勝画を取り上げる。もともとはブエン・レティーロ宮殿の「諸王国の間」を飾るためにスペイン王室が発注した12枚のスペイン戦勝画で、残念ながら1点が消失しているものの、現在オリジナル12点のうち11点すべてがプラド美術館所蔵となっている。ブエン・レティーロ宮はスペイン国王フェリペ四世の夏の離宮として1629年に建設が始まったが、当時は三十年戦争の影響もあって古典的な名画の市場が縮小しており、王室はお抱えの画家たちのプロモーションも兼ねて新作を描かせた。本特別展では8として挙げた「ジェノヴァ救援」が来日。
下記の図は、パーカーの「三十年戦争」139ページの図にわかりやすく色を付けて作成されたもの 2)。スペインは三十年戦争の中でも脇役の印象があるが、実は皇帝軍と並び全期間において直接・間接に何らかの関りを持ち続けている。三十年戦争だけではなく、その前哨戦にあたるユーリヒ=クレーフェ継承戦争、ウスコク戦争、グラウビュンデン戦争にも参戦しているうえ、半世紀前からの八十年戦争も続いている(1609-1618は十二年休戦条約中)。
中でもこの絵画シリーズの題材となったのは、フェリペ四世即位(1621)以降のスペイン軍の勝利である。絵画が描かれたのは1634年から1635年。ネルトリンゲンの戦いに代表される旧教側の優勢が、1635年のプラハ条約で頂点に達した時期と重なる(もっとも、その直後にフランスの参戦があり、戦局はさらに混沌を増すことになるが)。興味深いのは、同期間の勝利の中でもとくに決定的且つ王弟フェルナンド枢機卿が指揮したネルトリンゲンの戦いは取り上げず、オリバーレス公伯爵のプランでもあるライン地域(スペイン街道)の確保、とくに「フェリア公によるライン地域の三都市の奪還」シリーズを押し出している点である。スペイン単独の勝利に焦点を当てたためかもしれない。既に亡き英雄を賛美するという意図もあるためか、絵画の中で主役を張る司令官たちも、フェリア公を含め、死亡や引退で一線を引いている場合が多い。
絵画各論については、ヨーロッパ大陸内の8つの戦いに絞り、消失した1点を含め、ヨーロッパ外を題材にしたものはデータのみに留めた。
なお、本記事中の画像は、Wikimedia Commons 3)のパブリックドメイン画像の埋め込みソースを利用している。各絵画の表題や説明文に関しては、主にプラド美術館の公式サイト(英語版) 4)の記述を参考にした。
1. The expulsion of the Dutchmen from the island of San Martin by the Marquis of Cadreita
エウヘニオ・カシェス「カデレイタ侯によるサン・マルタン島からのオランダ人の駆逐」(lost)
1633年6月の海戦。現在消失。
2. The Storming of Rheinfelden (1634)
ヴィンチェンツォ・カルドゥッチ「ラインフェルデン急襲」
フェリア公によるラインフェルデン攻囲戦(1633)。
スペイン軍のミラノ総督フェリア公がラインフェルデンを急襲して奪還した攻囲戦。スウェーデン国王の戦死を好機と捉えたオリバーレス公伯爵は、スペイン領ミラノからライン地域にかけての「スペイン街道」の安全性の確保を命じた。フェリア公率いるスペイン・アルザス軍は20,000。対して、スウェーデン守備兵はわずか350名。ほぼ皆殺しでの奪取となった。
中央の平地には歩兵の「テルシオ」、左手前の高台には砲が据えられている。ラインフェルデンの城壁は中世そのままのカーテンウォールであり、砲にとっては格好の的となる。中央やや右では城壁が大きく割れていて、そこから兵士がなだれ込み、城壁の上では既に勝利のスペイン軍旗を掲げている兵も見える。完全に一方的な展開であり、プラドのタイトルどおり、攻囲戦 siege というよりは襲撃 storm といったほうがより実勢に即しているだろう。
なお、ここから5年後の第二次ラインフェルデン攻囲戦でもこの昔ながらの城壁は健在で、映画『最後の谷』でも城壁の内外での攻防が描かれている。
3. The Liberation of Brisach (1634-1635)
ホセ・レオナルド「ブライザッハ解放」
フェリア公によるブライザッハ解放(1633)
こちらもフェリア公による遠征の一環。内容もほとんど変わらず、三十年戦争全体からいうとよくあるほんの小さな小競り合いの域を出ない。正直このようなプロパガンダがなければ、あまり顧みられることもない戦いだっただろう。それを表すように、ここでは戦いの場面ではなく、既に開城交渉が済み、スペイン軍が整然と入城をおこなっている場面を描いている。
敢えて画家名を書かずにこのフェリア公三連作を並べてみると、すべて同じ画家が描いたと思えるような仕上がりである。が、三連作中、このブライザッハだけがレオナルドの筆によるものである。しかも作中では、「諸王国の間」のために描かれた他の絵画との共通性も見られる。例えば馬上で見返るポーズをとるフェリア公は、ベラスケスの描くオリバーレス公伯爵の騎馬像 5)と、右側の騎兵の持つ槍は同じくベラスケスの「ブレダの開城」の槍との類似性が見られる。オリバーレス公伯爵の騎馬像はこの作品よりも1年後の完成となることもあり、「諸王国の間」の作品を依頼された画家たちが、それぞれ事前あるいは製作中に互いの作品についての情報交換を行い、テーマに一貫性を持たせた可能性も高い。
4. The Relief of Constance (1634)
ヴィンチェンツォ・カルドゥッチ「コンスタンツ救援」
フェリア公によるコンスタンツ救援(1633)。
「フェリア公によるライン地域の三都市の奪還」のひとつだが、時系列としてはコンスタンツが最初の救援である。スペイン軍はグスタフ・ホルン将軍が攻囲するコンスタンツからスウェーデン軍を駆逐した。中央にあるコンスタンツの街は湖に囲まれていて、橋向こうにはスウェーデン軍が見える。主戦場は橋の手前のようである。スペイン騎兵は槍を持っていて、この時代になってもまだ槍騎兵が存在したことがわかる。
ところでフェリア公はこの一連の遠征直後の1633年12月、ミュンヘンのバイエルン選帝侯の居城で突如病に陥り、翌1月に死亡している。オリバーレス公伯爵の命による毒殺という噂がまことしやかに囁かれたそうだが、実際の死因は当時兵の間でも流行していたチフスとのこと。
5. The Recapture of San Juan in Puerto Rico (1634-1635)
エウヘニオ・カシェス「プエルト・リコのサン・ファン再占領」
フアン・デ・アロによるサン・ファン防衛(1625)
スペイン総督のフアン・デ・アロが、約1ヶ月半におよぶオランダ船の攻囲を阻止した戦い。フアン・デ・アロも絵画が描かれた時期には既に死亡している。
6. The Recovery of Saint Kitts Island (1634)
フェリックス・カステロ「セントキッツ島回復」
ファブリケ・デ・トレドによる、セントキッツ島のオイングランドからの再占領(1629)。
デ・トレドは一連の勝利の功績で1634年1月にに初代ビジャヌエバ・デ・バルドゥエサ侯に叙されたが、同年12月には死去。「セントキッツ」の完成は見たかもしれないが、「バイーア」の完成には間に合わなかったかもしれない。
7. The Recapture of Bahia de Todos los Santos (1634-1635)
フアン・バティスタ・マイノ「バイーア再占領」
ファブリケ・デ・トレドによる、ブラジルの港バイーアのオランダからの再占領(1625)。
右奥でフェリペ四世とオリバーレス公伯爵の絵画の前に立っているのは、初代ビジャヌエバ・デ・バルドゥエサ侯ではなく、同名の息子第二代ビジャヌエバ・デ・バルドゥエサ侯。
8. The Relief of Genoa by the II Marquis of Santa Cruz (1634-1635)
アントニオ・デ・ペレーダ「第二代サンタ・クルズ侯によるジェノヴァ救援」
* 3/24(土)にプラド美術館展鑑賞してきました。「ジェノヴァ救援」について、末尾に追記しています。
ジェノヴァ解放(1625)
フランス・サヴォイア連合軍が包囲するジェノヴァを、スペイン艦隊を率いた第二代サンタ・クルズ侯アルバロ・デ・バザンが解放。フランス軍はレディギエール大元帥、サヴォイア軍はサヴォイア公カルロ一世エマヌエーレ本人が指揮を執っていた。多分に漏れず、フランス・サヴォイアによる攻囲戦は「スペイン街道」の分断を図ったもので、スペインとしてはその阻止のための派兵となる。
第二代サンタ・クルズ侯の父は「スペイン海軍の父」と呼ばれる同名のアルバロ・デ・バザン。第二代である息子も海軍提督で、のちには陸軍の将軍も兼ねた。この絵画の中でのサンタ・クルズ侯は、絵画制作当時の60代の風貌をしている。また、このジェノヴァの風景は、実際のジェノヴァを見て描いたものではなく、いわゆる「イタリア風」の風景画である。バロック時代の絵画は、風景に関しては「目に見えているものを描く」のではなく、かといって文物に関しては「その当時の風俗を反映する」(例えば聖書の人物が16世紀当時の鎧を着ている等)という相反する性質があり、その点を見るのも面白い。
ところでこのジェノヴァには、1633年のライン地域遠征のフェリア公も参戦している。この絵画でサンタ・クルズ侯の後ろにいる4人の貴族たちの中にはどうやら含まれていない。
9. The Victory at Fleurus (1634)
ヴィンチェンツォ・カルドゥッチ「フリュールスの勝利」
フリュールスの戦い(1622)
フリードリヒ五世との契約を打ち切られたブラウンシュヴァイク公クリスティアンは、スピノラ候に攻囲されるオランダのベルヘン=オプ=ゾームに向かっていた。彼ら傭兵軍の到着を警戒したスピノラ候は既にスペイン本国に援軍を要請しており、それに呼応したコルドバ将軍が、ちょうど進軍中のクリスティアンを捉えた。クリスティアンは5度の騎兵突撃で応戦したが、コルドバ将軍の追撃を受けて自軍が壊滅、自身も左手を失う大怪我をし敗走した。このシリーズの中でも、最も野戦らしい両軍の激突が描かれている。
コルドバ将軍は、「テルシオ」考案者であるコルドバ将軍の同名の子孫(確か直系ではない)。この記事内でも「同名の」と何度か書いているとおり、スペイン貴族にはまったく同名の人物が多い。コルドバ将軍も祖先ほど有名ではないが、三十年戦争前半の旧教側の将軍の中でも実力者のひとりである。
プラド美術館におけるこの絵画の英語名称は表題のとおり「victory」。確かにどう見てもスペイン側優位の結果なのだが、ブラウンシュヴァイク公クリスティアンのウィキペディア 6)(日本語版のもとになった英語版も含め)を見ると、「スペイン軍の戦線を破り…(中略)…勝利したとはいえ」と、なんだか勝ったことになっている。戦線を破る、というより、命からがら逃げた、というほうが近い気もするが…。
10. The Surrender of Julich (1634-1635)
ホセ・レオナルド「ユーリヒの開城」
ユーリヒ攻囲戦(1622)
オランダ・スペイン間の十二年休戦条約が失効し、プファルツ遠征の途上にあったスピノラ候はフランドル戦線に復帰することにする。先に配下のファン・デン・ベルフ伯に攻囲をはじめさせたユーリヒに後から合流、5か月後に開城させた。
ユーリヒ=クレーフェ継承戦争まで話は遡るが、かんたんに言うと、継承戦争の結果ユーリヒ公国はプファルツ・ノイブルク公、クレーフェ公国はブランデンブルク選帝侯の領有となった。ただし、各領地内の都市それぞれひとつずつが、飛び地として存在することになった。そのひとつがユーリヒである。つまり、ユーリヒは「公国」はプファルツ・ノイブルク公の領地だが、その中心都市であるユーリヒの「街」はブランデンブルク選帝侯に属している。ブランデンブルク選帝侯はライン地域の防衛はオランダに一任しており(遠いので)、この時もユーリヒにはオランダの守備隊が入っていた。
この絵画は「ブレダの開城」と対で語られることが多い。同じくスピノラ候による開城の風景であり、それぞれライン川沿いの「スペイン街道」、南北ネーデルランド国境沿いの要衝の奪還でもあった。「ブレダの開城」が含むメッセージが強烈なため、どうしても「ユーリヒの開城」の見劣り感は否めない。しかし、こちらが「通常」の開城のシーンであり鍵の受け渡しの場面である。
いずれの攻囲戦でも、スピノラ候の副官として最も功績をあげたのは、先に挙げたファン・デン・ベルフ伯である。が、ファン・デン・ベルフ伯はオランダの総司令官オランイェ公の従兄弟でもあり、1632年に南ネーデルランドを離反してオランダに下った。そのため両絵画に彼の姿は描かれていない。ユーリヒではその代わりにレガネス侯(いちばん左の馬上の人物)がひときわ目立っている。彼はスピノラ候の娘婿でもあるが、オリバーレス公伯爵の親族でもあった。そのようなあからさまな意図も「ブレダの開城」に軍配が上がる理由かもしれない。
11. The Surrender of Breda (1635)
ディエゴ・ベラスケス「ブレダの開城」
ブレダ攻囲戦(1624-1625)
「槍 Las lanzas」の副題でも知られる。ロス=バルバセス侯スピノラを描いた、この連作中文句なしにトップを張る名作。ベラスケスの代表作でもある。この作品だけで本1冊になりかねない 7)ため、ここでも詳細は外部リンク『金獅子亭』「ブレダの開城」(槍)へ譲る。
ブレダ攻囲戦(1624-1625)を取り上げた小説「アラトリステ III ブレダの太陽」でも、この「ブレダの開城」をもとにエピローグが語られる。
12. The Defence of Cadiz against the English (1634-1635)
フランシスコ・デ・スルバラン「イングランド人からのカディス防衛」
カディス遠征(1625)
ドレイクの時代からイングランドはしょっちゅうスペインのカディスにちょっかいをかけているが、理由はだいたい同じで、貨物船の横取りと海軍戦力の弱体化である。この時もスペイン船団の財宝を奪ってそのままプファルツ奪還の資金に充当し、ついでに「スペイン街道」の流通にも打撃を与えようという(ある意味虫の良い)計画だった。
結果からいえば、スペイン側が効果的に撃退に成功したというよりも、イングランド側の自滅の感が強い。イングランドの指揮官たちを見るとエドワード・セシルを筆頭に全員陸軍出身で、エセックス伯もホラント提督も若く、陸軍経験すら少ない。
カディス総督フェルナンド・ヒロン・デ・サルチェードは、左の椅子に座って指揮を執る人物。「ジェノヴァ」と構図が似ているが、主人公はこのデ・サルチェードである。その後ろのサンティアゴ騎士がメディナ・シドニア公、中央でいちばん目立っている2名は、総督の命令を受けている副官たちとのこと。
「ジェノヴァ救援」についての追記
3/24(土)にプラド美術展にて現物を鑑賞したうえでの追記。
カラトラバ十字(左)とサンティアゴ十字(右)
繰り返しになるが、今回来日した「ブエン・レティーロ宮/諸王国の間」関連の絵画は、冒頭の「バルタサール・カルロス騎馬像」をメインとして、戦勝画からは「ジェノヴァ救援」のみ。その他ヘラクレスシリーズが2点。本展示会のキャッチである騎馬像よりも、ジェノヴァ救援のほうが中央の目立つ位置にあり、両脇をヘラクレスで囲んでいるかたちである。(こんなに目立っていたのにポストカードが無かったのは残念…)
まずは実物を観て真っ先に思ったのが、PC画像で見た以上に「ブレダの開城」との類似性が高いということ。中央のサンタ・クルズ侯とジェノヴァ総督のポーズもさることながら、左側の矛槍が非常に印象的に見える。
また、やはり画像ではわからない細かい部分では、サンタ・クルズ侯の後ろにいる将校たちの衣服。手前の青い袖の将校はカラトラバ騎士、後ろの赤系の上着を着ている将校2人はサンティアゴ騎士である。いずれの騎士団も、スペイン国王によって任命される、スペインでは中世以来の由緒ある騎士団である。他国の騎士団は騎士団章(ペンダント)を首から提げることが多いが、スペイン騎士団員は衣服の目立つ部分(中央または左胸)に大きく刺繍する。よーく見るとそれぞれ上着と同系色で刺繍されたカラトラバ十字とサンティアゴ十字がわかる。ベラスケスもサンティアゴ騎士なので、それにちなんだ展示会グッズとして「タルタ・デ・サンティアゴ」も販売されていた。
服装の点でもうひとつ。靴下もそれぞれ柄(というより地模様)が事細かに描いてある。これも良く見ると全員似たような模様になっているので、ふくらはぎから足首にかけてのかたちに合わせるための、当時の立体編みの技術なのかもしれない。
タルタ・デ・サンティアゴはこういう感じのタルト菓子
ちなみに、国立西洋美術館所蔵のヴァン・ダイク「レガネス侯の肖像」は、通常常設展にあるものがこの特別展のひとつとして特別展示室内に移動されていた。しかし、常設展にも本展示会に関連する他の絵画(たとえばエル・グレコ、ムリーリョ等の同時期のスペイン絵画、本特別展のコンセプトとも合致する哲学者像や宗教画)があるので、ぜひ常設展も同時鑑賞することをおすすめ。
- プラド美術館展 - アート・エキシビション・ジャパン ちなみに、トップに挙げた「バルタサール・カルロス騎馬像」は、今回の特別展のキャッチでもあり、「諸王国の間」のためにベラスケスによって描かれた王族の絵画の中の一枚でもある。
- Parker, Geoffrey. The Thirty Years' War, 2nd edition. Routledge, London. 1997. p. 139.
- Category:Paintings for the Salon de Reinos From Wikimedia Commons, the free media repository
- Museo del Prado
- Velazquez, 'Gaspar de Guzman, Count-Duke of Olivares, on Horseback', Museo del Prado
- クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル ウィキペディア
- 実際に本1冊(ベラスケスの伝記)になっている。 Bailey, Anthony. Velazquez and the Surrender of Breda: The Making of a Masterpiece, Henry Holt & Co, 2011