三十年戦争 400年企画

三十年戦争・きょうは何の日

当企画のTwitterで2月15日からつぶやいた内容から、【戦い】【訃報】【何の日】を一覧にまとめました。2月14日以前も含め、Twitterに載せ損ねた項目約200件を追加しています。誤字・脱字の訂正、表記の統一など、オリジナルのつぶやきに若干手を加えたものもあります。

内容はすべて1618-1648年の間の出来事、あるいは、1618-1648年に「活躍した人」の忌日となっています。また17世紀の戦争は、冬期は基本的に冬営に入るため、夏以降のほうが項目が多いです。

三十年戦争の枠内には、1618-1648年の間に行われた関連戦争(八十年戦争、ユグノー戦争、スウェーデン・ポーランド戦争、グラウビュンデン紛争、英西戦争、マントヴァ継承戦争、フランス・スペイン戦争、ピエモンテ内戦、オーバーエスタライヒ農民戦争、カタルーニャ反乱、ポルトガル王政復古戦争、トルステンソン戦争…て、戦争しすぎだわあんたら)も含めましたが、逆に、新世界やアジアなどヨーロッパ外での戦い(なので海戦も少ない)、ブリテン島内だけで完結しているイングランド内戦、1648年8月開始のフロンドの乱は省いています。

ベタなテキストでみづらいので、検索を駆使していただくなり、DLして加工していただくなり、工夫してご覧ください…。


1月

  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1622年1月1日 1582年10月15日にカトリック諸国で採用されたグレゴリオ暦において、1月1日が3月25日に代わる年の最初の日として宣言される。とくにドイツの新教諸国ではグレゴリオ暦の正式導入は遅れたが、個人レベルでは新暦採用や併用が広く行われた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1622年1月2日 リップシュタット占領/フリードリヒ5世に助力することにしたブラウンシュヴァイク公クリスティアンはこの冬、ミュンスターやパーダーボルンなど、ドイツ各地で略奪を繰り返した。中でもリップシュタットは冬営地として軍が留まったために荒廃した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年1月2日 チャールズ1世戴冠/1625年3月に王位を継承し、5月にはフランス王女ヘンリエッタ・マリアと結婚した英国王チャールズ1世が戴冠。しかし、カトリックの信教を理由にその結婚は議会から反対を受けており、王妃は戴冠式にも列席できなかった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1638年1月3日 ファン・カンペン劇場設立/アムステルダムに、市民劇場としては初の劇場が建設される。本来1637年12月26日にオープンの予定だったが、厳格なカルヴァン派教会の妨害でオープンが遅れた。こけら落しとしてフォンデルの新作の劇が上演された。
  • 【三十年戦争†訃報】1646年1月4日 ガスパール3世・ド・コリニー・シャティヨン/同名の祖父は有名なコリニー提督。ユグノーでありながら、ルイ十三世・リシュリュー枢機卿の信頼の厚いフランス元帥。オランダでの戦歴が長く攻囲戦を得意としたため、フランス参戦後の戦いでは野戦に手こずった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1640年1月6日 サルス・ル・シャトー攻囲戦/1639年にフランス軍のアンギャン公が40日の攻囲の末サルスを占領していたが、その後スペインからフィリッポ・スピノラ軍の援軍が到着し、攻囲戦を開始。アンギャン公の救援軍は11月に撃退され、飢えのため街は降伏した。
  • 【三十年戦争†訃報】1642年1月8日 ガリレオ・ガリレイ/三十年戦争期を生きたイタリアの物理学者、天文学者。地動説を唱えたため、異端審問や裁判にかかったことは非常に有名。1609年にオランダで望遠鏡が発明されると、自作して天体観測を続けた。現在はバチカンが裁判の誤りを認めている。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1644年1月9日 コリングの戦い/トルステンソン戦争最初期の戦い。歴戦のスウェーデン軍のスコットランド出身の将軍フェニンゲ伯ロバート・ダグラスが、騎兵を率いてデンマーク軍を破った。1月のうちにスウェーデン軍はユトランド半島のほぼすべてを制圧した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1636年1月11日 ハーゼリュンネの戦い/当時メッペルの領主でもあったスウェーデン軍将軍のドド・ツー・クニプハウゼンは、地元の兵1500を率いオスナブリュックへの移動途中、倍の兵力の皇帝軍と遭遇、戦闘となった。ドドは戦死したが、隊は辛うじて勝利した。
  • 【三十年戦争†訃報】1636年1月11日 ドド・ツー・インハウゼン・ウント・クニプハウゼン/三十年戦争の傭兵隊長。ヴァレンシュタイン同様、結婚によって資金を得て自軍を率いたが、運悪く負ける側ばかりを選んだ。最終的にはスウェーデン軍に仕官し元帥となる。ハーゼリュンネの戦いで戦死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年1月12日 第一次ピルゼンの誓い(Pilsener Revers)/皇帝から反逆の疑いを持たれていると自覚したヴァレンシュタイン元帥が、配下の将校たちに皇帝と自分とどちらにつくかを明示させ、49人の将校から支持を受けた。日本語でどのように訳出しているか不明。
  • 【三十年戦争†訃報】1625年1月13日 ヤン・ブリューゲル(父)/ブリューゲル一家の中でも「花のブリューゲル」として知られる。南ネーデルランド執政アルプレヒト7世とイザベラ夫妻の宮廷画家となり、彼らを書き込んだ風景画を多作した。同じく宮廷画家だったルーベンスとの共同作品も多い。
  • 【三十年戦争†訃報】1642年1月13日 エペルノン公ジャン・ルイ・ド・ノガレ/アンリ3世時代の寵臣で、アンリ4世の反対者(暗殺にも関わったといわれる)。若年期は提督にまでなった軍人だったが、ブルボン朝以降は陰謀に生きた。晩年にルイ13世への反逆の疑いにより追放。ラ・ヴァレット枢機卿は三男。
  • 【三十年戦争†訃報】1634年1月14日 第3代フェリア公ゴメス・スワレス・デ・フィゲローア/副王や総督を歴任したスペインの軍人。三十年戦争ではとくにライン地域再奪還のための遠征で名高いが、その直後にミュンヘンで病死。ブエン・レティーロ宮殿の戦勝画12枚のうち3枚に描かれている。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1626年1月17日 ヴァールホフの戦い/国王グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍がリトアニア大ヘトマンのレフ・サピェハを撃退。グスタフがその三兵戦術を実戦で試した最初のものとされ、スウェーデン側の被害はほぼ無しに等しかった(グスタフ曰く死者ゼロ)。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1641年1月17日 レーゲンスブルク襲撃(1641)/スウェーデン軍のヨハン・バネール元帥はフランス・ワイマール軍のゲブリアン伯と合流すると、真冬のレーゲンスブルクの急襲を試みる。しかし、凍結したドナウ川の氷が解けて渡河が叶わず、作戦は失敗に終わった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1642年1月17日 ケンペンの戦い(1642)/フランス軍のゲブリアン伯とヘッセン・カッセル軍のエーベルシュタイン伯は、皇帝軍のギョーム・ド・ランボア将軍を援軍が合流する前に急襲。朝食時に襲われたド・ランボアは捕虜となり、ゲブリアンはこの戦いの功で元帥となった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1629年1月18日 スウェーデン議会、三十年戦争介入に賛成/デンマークの退場によって新教軍と旧デンマーク軍を傭兵として抱えることが可能になったスウェーデンは、ポーランドとの戦争を終わらせ、ドイツ介入に舵を切る。同年9月にはポーランドとの和議が成った。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年1月19日 二コラ2世、ロレーヌ公に即位/ニコラ2世が兄シャルル4世を退位させ、ロレーヌ公となる。しかしその直後にフランス軍が侵入、ロレーヌを譲渡し4/1には亡命の途に就いた。その後兄シャルルがロレーヌ公を称したが、正式に返還したのは1661年である。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1622年1月21日 ゾースト占領/フリードリヒ5世に助力することにしたブラウンシュヴァイク公クリスティアンはこの冬、ミュンスターやパーダーボルンなど、ドイツ各地で略奪を繰り返した。ゾーストとヴェルルも同様に被害を受け、被害を免れたのはゲーセケだけだった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年1月22日 フリードリヒ5世に帝国アハト刑宣告/プファルツ選帝侯フリードリヒ5世とアンハルト侯クリスティアン1世に対し、皇帝は帝国アハト刑を下す。フリードリヒはさらに選帝侯位まで奪われることになるが、アンハルト侯は1624年に恩赦を受けた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年1月23日 ベールヴァルデ条約/スウェーデンとフランスが軍事同盟を締結。フランスはまだ三十年戦争に直接介入はせず、スウェーデンに資金援助を行うこととした。また、この時点ではフランスと同盟関係にあるバイエルンへの攻撃は禁止されていた。
  • 【三十年戦争†訃報】1642年1月23日 ゾフィー・ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク/傭兵隊長ブラウンシュヴァイク公クリスティアンの実姉。夫のナッサウ・ディーツ伯エルンスト・カシミールの戦死後、夫の領地に戻り代官を務めた。オクセンシェルナにも一目置かれるほど外交能力に長ける。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年1月24日 ヴァレンシュタイン解雇/ヴァレンシュタインの二度めの解雇。ヴァレンシュタインの裏切りを知った皇帝フェルディナント2世から秘密裏に発せられた決定で、事実上のヴァレンシュタインの排除命令でもある(この時点では明確な暗殺命令ではない)。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年1月24日 フィリップスブルク奪還/トリアー選帝侯フィリップ・クリストフが建設した要塞は、1634年にスウェーデン軍によって占領されていたが、皇帝軍がこれを奪還。さらに2か月後、フランスと同盟していたトリアー選帝侯自身が皇帝軍に逮捕されることになる。
  • 【三十年戦争†訃報】1639年1月24日 ユルク・イェナチュ/グラウビュンデン紛争において、プロテスタント勢力をまとめた指導者。ヴァルテリーナに駐留するスペイン軍やフランス軍を排除し自治を志向したが、カトリック勢力の影響力を利用し、自身が改宗までしたために最後は暗殺された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1643年1月24日 オリバーレス公伯爵解雇/フェリペ4世は、相次ぐ政策の失敗と病気を理由に、オリバーレス公伯爵を寵臣の地位から外す。しかしスペインの軍事的な凋落は留まるところを知らず、4か月後にロクロワの戦いで決定的な敗北を喫してしまう。
  • 【三十年戦争†訃報】1630年1月26日 ヴュルテンベルク・メンペルガルト公ルートヴィヒ・フリードリヒ/プロテスタント同盟の設立者の一人ヴュルテンベルク公ヨハン・フリードリヒの次弟。1628年の兄の死に伴い、甥エバーハルト3世の後見人となる。復旧令で領地の1/3を失い、残った領地も荒廃した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1641年1月26日 ムンジュイックの戦い/カタルーニャ収獲人戦争において、バルセロナへの途上次々反乱軍を制圧してきたスペイン軍が、ムンジュイックで敗北。カタルーニャの軍指導者フランセスク・デ・タマリットはフランス軍の助力を得て、寡兵でスペイン軍を破った。
  • 【三十年戦争†訃報】1621年1月28日 パウルス5世/外交ではヴェネツィアやイングランドとの交渉が主で、治世の最終盤に勃発した三十年戦争にはあまり介入していない。なお、初めて日本人に会った教皇で、1615年に慶長遣欧使節の支倉常長を引見しており、その様子が絵画に残されている。
  • 【三十年戦争†訃報】1627年1月28日 ゲルハルト・ランツァウ/デンマーク貴族で、シュレースヴィヒ・ホルシュタインの代官。オランダで戦争を学んだあとカルマル戦争で活躍した。ホルシュタインが皇帝軍に制圧される2か月前に死亡。のちのフランス元帥ヨシアス・ランツァウは甥で且つ婿。
  • 【三十年戦争†訃報】1640年1月28日 ハインリヒ・マティアス・フォン・トゥルン/三十年戦争の開始とされるプラハ窓外投擲事件や、ボヘミアの反乱ではウィーンに迫るなど初期の活躍で知られるが、実は息が長く、後スウェーデンの司令官や外交官にもなっている。一時ヴァレンシュタインの捕虜だった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1648年1月31日 ミュンスター和約/三十年戦争の和平交渉(のうちミュンスターで行われていたIPM)と並行して、スペイン・オランダ二国間で独自に話し合われた八十年戦争の和平交渉が、一足先に調印された。オランダはこれ以降、各国の調停役に徹する。

2月

  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1628年2月1日 メクレンブルク没収/皇帝フェルディナンド2世は、メクレンブルクを共同統治するアドルフ1世フリードリヒとヨハン2世アルプレヒト兄弟の領地を没収し、ヴァレンシュタインに封じると宣言する。ヴァレンシュタインは1631年までメクレンブルクを所有した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1622年2月2日 ユーリヒ開城/スペイン・オランダ間の十二年休戦条約が切れると、スペイン軍のスピノラ侯はまずはオランダ守備隊の駐屯するユーリヒを攻囲し開城に導く。この開城の様子は、10年以上後にスペイン王宮のを飾る戦勝画の1枚として描かれた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1637年2月3日 チューリップ・バブル/新種や希少種が咲く「かもしれない」チューリップの球根に対する投資熱が庶民にまで広がったオランダで、突如バブルがはじけ投機家が大混乱に陥った。最大で家1軒もの値段がついた球根が一夜にして二束三文に暴落した。
  • 【三十年戦争†訃報】1625年2月6日 ポンメルン公フィリップ・ユリウス/三十年戦争期、ザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯、神聖ローマ皇帝の三者の中にあって、政治的独立を志向した。しかしいずれにも与しなかった(とくにザクセンとは不仲)ことが災いし、ポンメルンは荒廃した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1626年2月6日 決闘禁止令布告/フランスのリシュリュー枢機卿の発案で、個人的に決闘をおこなった貴族を有罪とする布告を発令。それでもあまり抑止効果はなかった。「三銃士」でも、ダルタニャンが三銃士たちとそれぞれ決闘を約束するシーンから始まっている。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年2月6日 ドルトムント占領/前年7月に都市を占領した皇帝軍のパッペンハイム伯が1月17日に去ったばかりにも関わらず、次はヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム5世が街を占領。市長や評議員の挿げ替えが行われ、市民は重税に苦しむことになった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1637年2月6日 ケッテンボンド設立/グラウビュンデン紛争において、ユルク・イエナチュが設立した同盟。フランスの影響力を排除し、すべては連邦政府の中で解決することとした。フランスとの縁が深いサリス家以外に反対はおこらず、31人が同意した。
  • 【三十年戦争†訃報】1647年2月6日 第5代メディナ・デ・リオセコ公フアン・アルフォンソ・エンリケス・デ・カブレラ/第9代カスティーリャ提督。オンダリビア攻囲戦で、フランス軍のアンギャン公を破った功績で、シチリア副王、ナポリ副王を歴任した。さらに王室枢密院で国王の執事長も務めた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1623年2月7日 パリ条約(1623)/フランス・サヴォイア・ヴェネツィア間で調印された、対スペイン条約。ヴァルテリーナ渓谷に駐留するスペイン軍を追い出し、その後ヴァルテリーナを再編成して、調印国間で新たな秩序を持ち込むことを目的としたもの。
  • 【三十年戦争†訃報】1627年2月7日 バイエルン公ヴィルヘルム5世/バイエルン選帝侯マクシミリアン1世の父親で先代バイエルン公。ケルン戦争に介入し、以降のケルン選帝侯を事実上バイエルンの世襲とした。バイエルンの対宗教改革を進めた。1597年に息子に退位させられて後は信仰の生活を送った。
  • 【三十年戦争†訃報】1628年2月8日 スルディ枢機卿フランソワ・ド・エスコーブル/ボルドー大司教。フランス国王アンリ4世の次男オルレアン公ガストンの洗礼や、長男ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの結婚式など、王室に関わる大任を任された。甥のスルディ枢機卿アンリは司令官も兼ねた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年2月8日 南ネーデルランド分割構想/オランダ州総督オランイェ公フレデリク・ヘンドリクとフランスのリシュリュー枢機卿の間で、南ネーデルランドを分割し北半分をオランダ、南半分をフランスのものとするという秘密条約が成立。条約にとくに名前はついていない。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年2月9日 グレゴリウス15世がローマ教皇に選出/三十年戦争期にわずか4名しかいなかったローマ教皇の一人。しかし、在位期間がわずか2年半ほどと短かったうえ、政治よりも教会内改革のほうに力点を置いたため、三十年戦争に与えた影響は少ない。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年2月10日 アカデミー・フランセーズ設立/1626年頃から始まった文学者たちの非公式会合が、1635年、リシュリュー枢機卿の肝入りで正式に団体として設立された。フランス語の純化を目的としており、当初から終身の定員制で、メンバーは40名と定められている。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1638年2月10日 ルイ13世の宣誓/1632年にルイ13世はフランス王国を聖母マリアに聖別するとの誓いを立て、次期フランス王国の相続人の誕生を表す王妃アンヌの妊娠は、国王に対する聖母の回答と受け取られた。それを受け、国王は聖母マリアへの奉献を宣誓した。
  • 【三十年戦争†訃報】1643年2月11日 プファルツ・ノイブルク公女アンナ・マリア/ザクセン・ヴァイマール公フリードリヒ1世ヴィルヘルム公妃。1631年、居城のドルンブルク城がティリー伯に攻囲された際、負傷をものともせず先頭に立って撃退した。ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトは夫の甥。
  • 【三十年戦争†訃報】1627年2月12日 初代リヒテンシュタイン侯カール1世/リヒテンシュタイン家は16世紀末に一族ごとルター派からカトリックに改宗し、皇帝の寵を得た。三十年戦争初期に、ボヘミアで活躍した。その富は莫大で、2012年には「華麗なる侯爵家の秘宝」として展示会が催された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1638年2月12日 ハーナウ奪還/スウェーデンに占領されていたハーナウを、皇帝軍のナッサウ・ディレンブルク伯ルートヴィヒ・ハインリヒが奪還。持ち主のハーナウ・ミュンツェンベルク伯に返還されたが、わずか半年で伯は死去、4年後に直系も途絶えてしまう。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1638年2月13日 ヤン・カジミェシュ・ヴァーザ逮捕/ポーランド国王ヴワディスワフ4世の弟(後の国王ヤン2世カジミェシュ・ヴァーザ)が、スペインと共謀してフランスを陥れようとしたとして、リシュリュー枢機卿の命によって逮捕、シストロン要塞に2年間投獄された。
  • 【三十年戦争†訃報】1637年2月15日 神聖ローマ皇帝フェルディナント2世/ボヘミアの反乱、プファルツ選帝侯位の移譲、復旧令、ヴァレンシュタイン暗殺、プラハ条約等、皇帝として三十年戦争に強権を持って関わった中心人物。長男フェルディナントのローマ王選出など、皇帝側優位の局面で病死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1637年2月15日 神聖ローマ皇帝フェルディナント3世即位/父フェルディナント2世の死を受け、ローマ王の長男フェルディナントがフェルディナント3世として即位。しかしフランスの参戦による皇帝軍の劣勢を跳ね返すことができず、和平を志向するようになる。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年2月16日 マラテーア公ゴンザロ・フェルナンデス・デ・コルドバ/「テルシオ」を考案したコルドバ将軍の子孫。プファルツ遠征、マントヴァ継承戦争、マース川沿いの遠征など、三十年戦争前半の戦線に関りが深い。プラド美術館所蔵のフリュールスの戦勝画に描かれている。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年2月18日 マティアス・ガラスが皇帝軍総司令官に任命/ヴァレンシュタイン元帥を解雇し、その後任がガラスとなることがプラハで正式に発令される。ガラス将軍のほか、ピッコロミーニ将軍、アルドリンゲン将軍が反ヴァレンシュタインの中心となった。
  • 【三十年戦争†訃報】1625年2月19日 初代チチェスター男爵アーサー/アイルランド生まれの軍人。1590年代は英西戦争やフランス国王アンリ4世への援軍として活躍した。数年で代替わりする者の多い中、11年間アイルランド総督を務めた。晩年は英国大使も務め、プファルツ遠征にも参加している。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1623年2月20日 バイエルン公マクシミリアン1世、レーゲンスブルク帝国会議にてプファルツ選帝侯位を獲得/同時に前選帝侯フリードリヒ5世は選帝侯位を剥奪されることになった。この措置は金印勅書に反するもので、新旧教双方の帝国諸侯から批判を浴びた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年2月20日 第二次ピルゼンの誓い(Pilsener Revers)/1月の第一次に比べ、ヴァレンシュタイン配下の3分の1の将校が皇帝側に寝返ったが、それでもまだ32名がヴァレンシュタインに忠誠を誓った。この行為自体が皇帝への逆心ととられ、暗殺計画が進むことになる。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1628年2月22日 ミュンヘン条約(1628)/神聖ローマ皇帝フェルディナント2世とバイエルン公マクシミリアン1世間の条約。バイエルン公は皇帝選挙権を持つ選帝侯としての身分を保証され、30年間のライン川右岸およびオーバープファルツの支配権を得た。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1623年2月25日 レーゲンスブルク帝国会議(1623)/同日バイエルン公マクシミリアン1世を選帝侯とするセレモニーが開催された。前選帝侯フリードリヒ5世の選帝侯位剥奪は、その舅にあたるイングランド国王ジェームズ1世を三十年戦争に介入させる遠因ともなる。
  • 【三十年戦争†訃報】1634年2月25日 アルプレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン/神聖ローマ皇帝軍総司令官。デンマーク戦争の局面で活躍したが、逆に帝国諸侯の反感を買い罷免を求められる。スウェーデン戦争の対抗馬として復帰するものの、リュッツェンの戦いの後皇帝派によって暗殺された。
  • 【三十年戦争†訃報】1634年2月25日 アダム・エルドマン・トルチュカ/ボヘミアの貴族で、皇帝軍の軍人。カール・フォン・ハラハの娘と結婚しており、ヴァレンシュタイン元帥とは妻の姉妹を通じて義理の兄弟の関係だった。エーガー城でのヴァレンシュタイン暗殺の際に、共に殺害された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年2月28日 ザクセン選帝侯と皇帝との停戦/ハイルブロン同盟でスウェーデンに新教の盟主の立場を奪われ、さらにネルトリンゲンの戦いで敗北したザクセン選帝侯は、プラハ条約に先んじてロウニで皇帝と停戦。しかし以降はスウェーデンから執拗に攻撃を受けた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1638年2月28日 ラインフェルデンの戦い(1638)/第1日。ライン川の北と南で、日をあけて二度戦われた。ラインフェルデン攻囲を計画するザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトを阻止しようと、攻囲開始前日に皇帝軍が激突。映画『最後の谷』の舞台にもなっている。
  • 【三十年戦争†訃報】1648年2月28日 デンマーク国王クリスチャン4世/三十年戦争では、自身が介入した「デンマーク戦争」と、晩年にスウェーデンの侵攻を許した「トルステンソン戦争」の2つの戦争に関わる。いずれも壊滅的な被害は免れたものの、バルト帝国の地位をスウェーデンに譲ることになった。

3月

  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1638年3月3日 ラインフェルデンの戦い(1638)/第2日。3日前の戦いで、ベルンハルト軍が敗走したと油断する皇帝軍に、反転したベルンハルト軍が襲い掛かり勝利を得た。皇帝軍はヨハン・フォン・ヴェルト、フェデリコ・サヴェリの両司令官が捕虜となった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1626年3月5日 モンソン条約/フランスのリシュリュー枢機卿とスペインのオリバーレス公伯爵間の条約。サヴォイアとジェノヴァとの戦闘行為を終結させ、状況を1618年以前の状態に戻すこととした。これを不服としたサヴォイアは親仏から親西に態度を変えることになる。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1645年3月5日 ヤンカウの戦い/トルステンソン元帥率いるスウェーデン軍が皇帝軍を撃破、半数以上が捕虜か戦死という壊滅的な被害を与えた。これによりウィーン・プラハ両都市への道が開け、皇帝フェルディナント3世はレーゲンスブルクへの逃亡を余儀なくされた。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年3月5日 ヨハン・フォン・ゲッツェン/バイエルン軍元帥。ルター派だったため三十年戦争当初こそ新教側で参戦したものの、あまりの弱さに嫌気がさし1626年から皇帝軍に仕官。以降皇帝軍で、1626年以降はバイエルン軍や皇帝軍で転戦した。ヤンカウの戦いで戦死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1629年3月6日 復旧令/プロテスタント諸侯に1552年以降収奪された教会領地のカトリック側への返還、皇帝に許可を得ない同盟締結禁止等を命じた勅令。新教側だけではなく旧教側からも反対を受け、翌年のレーゲンスブルク帝国会議での皇帝への逆風が強まった。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年3月6日 ジュゼッペ・シルヴィオ・マックス・ピッコロミーニ/皇帝軍の将軍。ヤンカウの戦いで捕らえられ殺害。オッタビオ・ピッコロミーニとはそれほど近しい血縁ではないようだが、シラーの史劇『ヴァレンシュタイン』で、オッタビオの息子のマックスのモデルとなった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年3月9日 ノイブランデンブルク征服/バイエルン軍のティリー伯は、3日間の攻囲でノイブランデンブルクを制圧。スウェーデン軍のクニプハウゼン将軍は捕らえられ、街は略奪された。1991年11月に、城門の地下からこの時代の大量の人骨が発見されている。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1632年3月9日 バンベルクの戦い/ドイツ上陸後、プファルツを南下し進軍を進めるスウェーデン国王グスタフ2世アドルフに、バイエルン軍のティリー伯が一矢報いた戦い。しかし逆にスウェーデンに対して、バイエルン侵攻の口実を作ってしまうことになった。
  • 【三十年戦争†訃報】1637年3月10日 ポンメルン公ボギスラフ14世/1625年に全ポンメルン統一を達成するも、その直後から領内帝国都市・皇帝軍・デンマーク軍・スウェーデン軍に相次いで悩まされた。嗣子を残さず死亡したため、ポンメルンはその後スウェーデンやブランデンブルクに割譲された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1629年3月11日 スーザ条約/マントヴァ継承戦争中の条約で、2つの条約に分かれている。1つめがフランスとサヴォイア間のもので、通行許可と対スペイン支援の内容、2つめは英仏間のもので、国王と王女の結婚の再確認と、互いの占領地の返還を約している。
  • 【三十年戦争†訃報】1646年3月11日 スタニスワフ・コニェツポルスキ/スタニスワフ・ジュウキェフスキの弟子で、ポーランド・リトアニア共和国のヘトマン。陸海双方に優れた軍司令官で、スウェーデン・ポーランド戦争においては、スウェーデン国王グスタフ2世アドルフを何度も敗北させた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年3月13日 アウクスブルク奪還/1632年にスウェーデン軍に占領されたアウクスブルクを、バイエルン軍のオットー・ハインリヒ・フッガー将軍が6か月の攻囲の末奪還。フッガー家はもともとアウクスブルクが地元だったこともあり、その後12年間平和裏に治めた。
  • 【三十年戦争†訃報】1640年3月13日 フキエール侯イザック・マナセ・ド・パ/フランスの軍人。元帥にまではならなかったが、ヴァルテリーナ、ラ・ロシェル、ロレーヌと転戦した。前年のティオンヴィルの戦いの際に受けた傷が元で死亡。書簡類が残っており、後世の研究にも役立っている。
  • 【三十年戦争†訃報】1647年3月14日 オランイェ公フレデリク・ヘンドリク/「祖国の父」オランイェ公ウィレム1世を父に、ナッサウ伯マウリッツを兄に持ち、「都市奪還者」と称せられる。オランダの黄金時代に国家の安定という面で貢献しつつも、和平には反対していた。ミュンスター和約を見ず病死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1647年3月14日 ウルム和約(1647)/フランス・スウェーデン・バイエルン間の休戦条約。バイエルン公マクシミリアン1世は、皇帝フェルディナント3世との同盟破棄を強制された。しかしマクシミリアン1世は条約を反故にして、半年後には再度皇帝側に転ずる。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年3月15日 ヘッセン・カッセル方伯モーリッツ/ヘッセン・マールブルク方伯の遺領と遺言をめぐり、従弟のヘッセン・ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世と対立した。その解決のため退位して息子に伯位を譲ったが、後にヘッセン戦争として蒸し返されることになる。
  • 【三十年戦争†訃報】1628年3月17日 クレキ侯シャルル1世・ド・ブランシュフォール/フランス元帥。三十年戦争の前期はサヴォイアへの援軍としてピエモンテで戦い、中期は大使としてローマやヴェネツィアへ派遣され、後期はイタリア方面軍で対スペイン戦を戦った。クレーマ攻囲戦中に戦死。
  • 【三十年戦争†訃報】1619年3月20日 神聖ローマ皇帝マティアス/ボヘミアの反乱を誘因し、三十年戦争が始まる一因を作った。兄である先帝ルドルフ2世の政争で帝位を奪うかたちとなったが、自身も弟マクシミリアン3世や従弟フェルディナント2世との勢力争いに敗れるという同じ図式をたどった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年3月20日 デンマーク国王クリスチャン4世がニーダーザクセン・クライスの司令官に選出/クリスチャン4世はデンマーク国王としてではなく、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公としてドイツの戦争に介入した。両公国はニーダーザクセン・クライスに属している。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1623年3月20日 フランケンタール開城/プファルツの最後の牙城フランケンタールは、選帝侯のフリードリヒ5世が逃亡した後も、イングランドの援軍が立て籠もり最後の抵抗を続けた。しかし最後は英国王ジェームス1世の命により開城。ここにプファルツ遠征は終結した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年3月20日 マグデブルク攻囲戦/ドイツ上陸後のスウェーデン国王グスタフ2世アドルフの当面の目的は、マグデブルクの救援だった。しかしザクセン・ブランデンブルク両選帝侯が協力を渋り軍隊の通過を拒んだ。そのためマグデブルクは悲惨な略奪に遭うことになる。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1636年3月20日 ヴィスマール条約/フランスとスウェーデン間の条約。互いにハプスブルク家に対抗することとし、フランスはライン左岸を、スウェーデンはボヘミアとシレジアを担当することとなった。この条約は2年後のハンブルク条約の際に最終的に批准された。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1635年3月21日 シュパイアー・ハイデルベルク占領/フランス軍のマイユ・ブレゼ将軍とド・ラ・フォース将軍は、ライン川を渡りシュパイアーとハイデルベルクを占領。フランスの三十年戦争への正式参戦は同年5月のため、こられの遠征についてはそれに含まれていない。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年3月22日 グロティウス脱獄/政治犯としてルーフェステイン城に収監されていたヒューホ・グロティウスが、妻と使用人の協力で、本箱に隠れて脱獄に成功。のちパリで多くの著作を著した。現在その本箱は、なぜかオランダ国内数か所の博物館に存在している。
  • 【三十年戦争†訃報】1623年3月25日 ブイヨン公アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーベルニュ/フランスのテュレンヌ元帥の父。フランス国王の臣下でありながら、セダン公国・ブイヨン公国の君主でもあり、フランス・ユグノーの大物。フリードリヒ5世の叔父で、亡命中の甥を一時匿った。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年3月26日 トリアー選帝侯フィリップ・クリストフ逮捕/スペイン軍によるトリアー占領と同時に、フランスと結託し皇帝と利害が相反したとしてトリアー選帝侯フィリップ・クリストフが逮捕される。彼の逮捕はフランス宣戦の口実のひとつともなった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1636年3月26日 ユトレヒト大学設立/レイデン、フロニンゲンに次ぐ、オランダ3番めの大学が設立。初の女性の学生として、アンナ・マリア・ファン・スフールマンが開学当初から通っていたことや、神学教授ヴォエティウスがデカルトと論争を起こしたことでも有名。
  • 【三十年戦争†訃報】1625年3月27日 イングランド国王ジェームズ1世/三十年戦争には、娘婿プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の動向に即して介入。ボヘミアの反乱時やプファルツ遠征時には正式な参戦は見送ったものの、選帝侯位がバイエルン公に移譲されてはじめて本格的な介入を図るようになった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1641年3月27日 プレスニッツの戦い/ヨハン・バネール元帥率いる冬期遠征中のスウェーデン軍を、オッタビオ・ピッコロミーニ元帥率いる皇帝軍が奇襲した戦い。山地の地形を利用して敗走するスウェーデン軍は、ワゴンブルクを使って応戦するものの、3割の兵を失った。
  • 【三十年戦争†訃報】1621年3月31日 スペイン国王フェリペ3世/英西戦争の「ロンドン条約」、八十年戦争の「十二年休戦条約」で戦闘行為を休止させるも、ユーリヒ・クレーフェやグラウビュンデンの紛争には介入した。彼の死と同時に、彼の寵臣レルマ公およびその長男ウセダ公も失脚した。

4月

  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年4月1日 バイーア奪還/スペイン・ポルトガル連合艦隊を率いた初代ビジャヌエバ・デ・バルドゥエサ侯が、オランダ西インド会社が要塞を建設していたサルヴァドール・ダ・バイーアを奪還する。この戦いはブエン・レティーロ宮殿の戦勝画の題材のひとつとなった。
  • 【三十年戦争†訃報】1639年4月1日 ザクセン・アルテンブルク公ヨハン・フィリップ/弟たちが軍務に就いたため、長男としてザクセン・アルテンブルクの領地を治めたが、皇帝軍のヴァレンシュタインに領地は焼き討ちに遭った。ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトは従弟にあたる。
  • 【三十年戦争†訃報】1641年4月2日 ブラウンシュヴァイク・カレンベルク公ゲオルク/高位の家系に生まれながら傭兵隊長として身を立て、主にスウェーデン軍で活躍した。1635年のプラハ条約に最後まで反旗を翻した3人の帝国諸侯のうちの1人でもある。しかし同年、家のために傭兵を廃業して隠居する。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1622年4月4日 ヴァインガルテンの戦い/ウニオン軍のバーデン・デュルラハ辺境伯と皇帝軍・バイエルン軍のティリー伯・パッペンハイム伯との戦い。夕暮れ時の総攻撃で皇帝軍側が辺境伯を撃退した。この後ヴァインガルテンは破壊され、旧教に回帰することになった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年4月4日 ライプツィヒ条約/ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクが2/26に開催したプロテスタント諸侯の会議は、三十年戦争の終結について議論し、3/28から4/4にかけて条約に署名した。その後4/21に反皇帝の立場を表明し、ライプツィヒ連合と称する。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1645年4月7日 トリアー選帝侯フィリップ・クリストフ解放/フランスと結託し皇帝と利害が相反したとして1635年3月に逮捕されたトリアー選帝侯フィリップ・クリストフが、10年のリンツでの虜囚生活を経て解放。彼の逮捕はフランス宣戦の口実のひとつともなった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年4月8日 パーダーボルン占領/ヘッセン軍と契約を結んだばかりのメランダーはまずはパーダーボルンを占領。以降ネルトリンゲンの戦いまでの間、前年のスウェーデン国王戦死で意気消沈する新教側にとって、ヴェストファーレン地方で地味な勝利を重ねることになる。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年4月9日 十二年休戦条約失効/1609年にスペインとオランダの間で成立した条約が、12年の休戦期間を経て失効する。その前後にスペイン国王の代替わりと南ネーデルランド執政の死去があり、休戦継続派に代わって主戦派が大勢を占めることになった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1638年4月12日 フライブルク・イム・ブライスガウ譲渡/ラインフェルデン攻囲戦で目覚ましい働きをあげたばかりのザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトは、立て続けにアルザスのその他の都市も制圧。フランスはそのうちフライブルクの領有権を譲渡した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1631年4月13日 フランクフルト・アン・デア・オーダーの戦い/ポンメルンに上陸したスウェーデン軍が、ジョン・ヘップバーン、ロバート・モンロー等スコットランドの義勇軍の助力で、要地フランクフルトを急襲。スウェーデン軍はドイツ進攻の足場を得ることになった。
  • 【三十年戦争†訃報】1638年4月13日 アンリ2世ド・ロアン/仏国王アンリ4世の寵臣にして、フランスにおけるプロテスタントの指導者。ラ・ロシェル攻囲戦後はヴァルテリーナ戦役で戦ったが次第に王権に危険視され、晩年はザクセン・ヴァイマール公の軍に加わった。ラインフェルデン攻囲戦で戦死。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1639年4月14日 ケムニッツの戦い/合流を果たしたヨハン・バネールとレンナート・トルステンソンのスウェーデン軍が、皇帝軍のマティアス・ガラスとザクセン軍のルドルフ・フォン・マルツィンの連合軍と戦った会戦。スウェーデン軍はほぼ騎兵のみで相手を敗走させた。
  • 【三十年戦争†訃報】1641年4月14日 ハンス・ゲオルク・フォン・アルニム/スウェーデン軍・ザクセン軍・皇帝軍等、頻繁に所属を変えて戦った傭兵隊長。が、ドイツに荒廃をもたらす勢力に敵対するという軸は、生涯ルター派であったという敬虔さとともに決してブレない。行軍中に急死。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1632年4月15日 レヒ川の戦い/レヒ川両河岸に陣取ったスウェーデン軍とバイエルン軍の戦い。序盤で大砲を効果的に使い、さらに渡河に成功して襲撃を加えたスウェーデン側に比べ、バイエルン側は将校の負傷が相次ぎ壊滅。ティリー伯の戦死も大きな痛手となった。
  • 【三十年戦争†訃報】1628年4月16日 オストフリースラント伯ルドルフ・クリスティアン/若くして領主となり、領内のベルム城に皇帝軍のマティアス・ガラス将軍麾下の兵を宿営させていたところ、戦闘に巻き込まれ左目を突かれてその傷が元で死亡。評判のよくない弟ウルリヒ2世が跡を継いだ。
  • 【三十年戦争†訃報】1630年4月17日 アンハルト・ベルンブルク侯クリスティアン1世/プファルツ選帝侯フリードリヒ4世下で「プロテスタント同盟」の成立に中心的な役割を果たすが、フリードリヒ5世の宰相としての失政が三十年戦争の発端ともなった。帝国アハト刑となるがのち皇帝により赦された。
  • 【三十年戦争†訃報】1637年4月17日 ヴァルフュゼ伯ルネ・ファン・レネッセ/南ネーデルランド執政府の貴族で、「南ネーデルランド分割構想」の発案者のひとり。大逆罪に問われ財産を没収されたため、スペイン本国と和解した。リエージュ市長を暗殺したため、その翌日民衆に虐殺された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年4月20日 アウグスブルク占領/4/19に市門の前で開城を要求した国王グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍に対し、街は翌日引き渡しを表明。スウェーデン宰相オクセンシェルナの長男が守備隊長となって街の防備を強化し、スウェーデン塔が建設された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年4月20日 ランツベルク・アム・レヒの虐殺/スウェーデン軍のトルステンソン将軍が、4/11からランツベルク攻囲を開始。4/19から4/20にかけての夜、ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトの援軍が合流して街を急襲、住民のほとんどを虐殺した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年4月21日 ライプツィヒ連合設立/ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクが2/26に開催したプロテスタント諸侯の会議は、三十年戦争の終結について議論し、3/28から4/4にかけて条約に署名した。その後4/21に反皇帝の立場を表明し、ライプツィヒ連合と称する。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年4月21日 トルステン・スタールハンスケ/フィンランド・ハッカペルを率いる騎兵のベテランで、スウェーデン軍ドイツ上陸以降、その死まで将校として勤める息の長い将軍。二度のブライテンフェルトはじめとしてほとんどの戦闘に参戦した。トルステンソン戦争従軍中に病死。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1634年4月22日 ヘルフォルトの戦い/ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公とヘッセン・カッセル軍によるヴェストファーレン地方の一連のキャンペーンのひとつ。4/20に皇帝軍にヘクスターを占領されたのに加え、ヘルフォルトでは2連隊が壊滅するほどの損害を受けた。
  • 【三十年戦争†訃報】1625年4月23日 オランイェ公マウリッツ/「祖国の父」ウィレム1世を父に持ち、その遺志を継いでオランダの八十年戦争を軍事的に指導した。彼の軍制改革が三十年戦争に与えた間接的影響は大きい。フリードリヒ5世一家をハーグに受け入れた。スピノラ侯によるブレダ攻囲中に病死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年4月23日 ハイルブロン同盟/スウェーデン国王グスタフ2世アドルフの死を受け、スウェーデンがプロテスタントのドイツ諸侯と結んだ軍事同盟。しかしフランスやザクセン選帝侯の介入の影響で司令官を複数据えるなど、当初から問題を抱えることになった。
  • 【三十年戦争†訃報】1636年4月23日 メクレンブルク公ヨハン2世アルプレヒト/1628年、皇帝フェルディナンド2世によって、共同統治する兄アドルフ1世フリードリヒとともに領地を没収された。ヴァレンシュタインがメクレンブルク公に封じられたが、スウェーデンの侵攻によって1631年に帰還した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年4月24日 ジェノヴァ解放/フランス・サヴォイア連合軍が包囲するジェノヴァを、スペイン艦隊を率いたサンタ・クルズ侯アルバロ・デ・バザンが解放。スペイン国王フェリペ4世がブエン・レティーロ宮用に描かせた戦勝画の題材のひとつにもなっている。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1625年4月25日 デッサウ橋の戦い/デンマーク軍のエルベ川渡河路を、確保しようとした傭兵隊長マンスフェルト伯エルンストと、阻止しようとした皇帝軍アルドリンゲン伯ヨハンとの戦い。皇帝軍にヴァレンシュタイン軍が加勢したためマンスフェルト軍は壊滅した。
  • 【三十年戦争†訃報】1647年4月25日 マティアス・ガラス/「壊し屋」の異名をとり、デンマーク戦争、マントヴァ継承戦争ののち、皇帝軍元帥としてブライテンフェルトの戦いやネルトリンゲンの戦いにも参戦。さらにロレーヌ戦線やトルステンソン戦争まで転戦し、最後は引退のうえ消耗死した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年4月26日 マドリード条約(1621)/フランス国王とスイス連邦の条約。フランス国王の廷臣バソンピエールが代理で調印した。ヴァルテリーナはグラウビュンデンに返還され、さらに同地域でプロテスタントの信仰が許された。スペインはキアヴェンナを領有した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1622年4月27日 ミンゴルスハイムの戦い/マンスフェルト伯エルンストとバーデン・デュルラハ辺境伯が、皇帝軍のティリー伯とスペイン軍のコルドバ将軍との合流を阻止しようとした戦い。ティリー伯の撃退には成功したものの、その後彼らが合流することは阻めなかった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年4月27日 レーゲンスブルク占領(1632)/1632-1634年に3回に渡って占領・奪還が繰り返された第1回め。街はバイエルン公マクシミリアン1世が率いる軍によって強制的に占領された。その後要塞として拡張されるが、翌年スウェーデンに奪取されることになる。
  • 【三十年戦争†訃報】1641年4月27日 ヴィルヘルム・フォン・ラート/研究者から軍人に転身した戦う学者。アンハルト・ケーテン侯ルートヴィヒ1世に雇われ、軍の会計と騎兵司令官の両方をこなした。アンハルト・ケーテン侯が初代会長の「実りを結ぶ会」の会員でもある。強盗に襲われて死亡。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1636年4月29日 シェンケンシャンツ攻囲戦/1635年にスペイン軍に奪われたライン川分岐点の要地を、一冬を越す攻囲戦の上オランダが奪還。三方を水に囲まれた中州に対しセオリーの塹壕戦術は使えなかったが、ひたすら砲を浴びせかけるという方法で開城に導いた。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年4月29日 リヒテンシュタイン侯マクシミリアン/三十年戦争の初期、皇帝軍のブッコワ伯の元ボヘミアで戦功を挙げる。その褒賞としてボヘミアの封土と帝国伯の地位を得、以降はあまり戦場には出ずに領地の対宗教改革を進めた。多くの修道院に莫大な寄進をしている。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年4月30日 ティリー伯ヨハン・セルクラエス/バイエルン公マクシミリアン1世に仕え、1609年に「カトリック連盟」の総司令官、1621年からは皇帝軍元帥。主にデンマーク戦争で無敗の快進撃を続けたが、マグデブルク略奪で晩節を汚した。レヒ川の戦いで負った傷が元で死去。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年4月30日 ポーランド国王ジグムント3世/従兄弟でもあるスウェーデン国王グスタフ2世アドルフに対し、スウェーデン王位を要求してスウェーデン・ポーランド戦争を戦った。戦況はポーランド優位に進んだが、アルトマルクの和議では領土割譲等の譲歩を強いられた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年4月30日 コンピエーニュ条約(1635)/1634年にフランスと新教諸侯の間で締結されたパリ条約への調印を拒否したスウェーデンが、改めてフランスと交渉、条件を変えて合意した。周囲を同盟で固めたフランスは、この直後に宣戦布告し三十年戦争に正式介入する。

5月

  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1623年5月1日 ウーデンハイム改名/トリアー選帝侯フィリップ・クリストフにちなんだフィリップスブルク要塞の完成に伴い、街の名もフィリップスブルクに改名。旧教の聖界選帝侯が新教への脅威に対抗して建設したが、結局要塞ごとスウェーデンやフランスに奪われた。
  • 【三十年戦争†訃報】1635年5月2日 ティルベリー男爵ホレス・ヴィアー/1590年代から1630年代までオランダ八十年戦争に従軍した最古参の将軍で、1604年以降は英軍のオランダ方面軍司令官となる。国王ジェームズ1世の命でプファルツ遠征に派遣され、フリードリヒ5世を助けてスピノラ侯と争った。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1645年5月2日 ヘルプストハウゼンの戦い(メルゲントハイムの戦い)/皇帝軍の援軍のため行軍中のバイエルン軍のフランツ・フォン・メルシー将軍を、数で優るフランス軍のアンリ・テュレンヌ元帥が追撃。しかし逆にバイエルン軍の夜襲によりフランス軍は壊滅した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1622年5月6日 ヴィンプフェンの戦い/新教軍のバーデン・デュルラハ辺境伯とマンスフェルト伯は、スペイン軍のコルドバ将軍とバイエルン軍のティリー伯の各個撃破を試み二手に分かれ進撃する。しかし辺境伯は既に連合していた相手と対峙し、ほぼ全軍を失うこととなった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年5月7日 プレスブルク(ブラチスラバ)奪還/1619年、ボヘミア軍を率いたベトレン・ガーボルに占領されたプレスブルクを、皇帝軍のブッコワ伯が奪還。ベトレン・ガーボルは同年、再奪還を試みたが失敗した。1626年には皇帝との和議がこの地で成立した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1624年5月8日 ウィーン和約/皇帝フェルディナント2世とトランシルヴァニア公ベトレン・ガーボル間の和約。1621年のニコルスブルク和約後もベトレンがハンガリー侵攻を繰り返したため、オポーレ公位が取り上げられるなど、ベトレン側に若干不利となった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年5月9日 デンマーク参戦/デンマーク国王クリスチャン4世が、デンマーク軍を率いてドイツに上陸。名目としてはドイツ諸侯としての参戦だった。スウェーデン国王グスタフ2世アドルフとの確執が単独介入を選ばせ、結果的には勢力を結集できず撤退することになる。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年5月10日 ボーモン・ル・ロジェ伯ジャン・ルイ・ド・マリヤック/フランス元帥。アンリ4世時代からの古参で、常に国王の利益を考えて行動した。マントヴァ継承戦争の司令官としてサヴォイアに派遣されていたが、陰謀に巻き込まれ逮捕、猛抗議にも関わらず斬首された。
  • 【三十年戦争†訃報】1641年5月10日 ヨハン・バネール/ドイツ方面スウェーデン軍総司令官として、グスタフ2世アドルフ国王戦死後のスウェーデン軍を立て直し、ケムニッツの戦いをはじめとして皇帝軍に対し戦勝を重ねた。フランス軍との共同戦線の途上、長年の不摂生に起因する肝硬変により病死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年5月11日 ディンケルスビュール占領/スウェーデン国王グスタフアドルフの名代として、スウェーデン軍のクラウス・フォン・ディートリッヒ・シュペルロイトがディンケルスビュールを無血開城させる。19世紀以降、街ではこの出来事を記念した祝祭が催されている。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1644年5月11日 ユーバーリンゲン攻囲戦(1644)/前年にフランス軍の占領に遭ったユーバーリンゲンを、バイエルン軍のフランツ・フォン・メルシーが攻囲、1ヶ月ほどで開城させた。この年以降現在まで、1634年のスウェーデン撃退を祝う祭りが年2回行われている。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1634年5月13日 リーグニッツの戦い/当時ザクセン軍所属のフォン・アルニム将軍が、皇帝軍の騎兵将校フォン・コロラド将軍を破った戦い。夜襲を仕掛けたアルニム将軍側が、いったんコロラド将軍の騎兵に押されるものの、3時間の激闘の末撃退に成功した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1641年5月13日 クンスタンティーの戦い/カタルーニャ収獲人戦争において、スルディ枢機卿の援軍を得たフランスのド・ラ・モート将軍(のち元帥)は、サロウ砦を奪った後クンスタンティーで反乱軍を敗走させる。その後もタラゴナ包囲網を完成させるため砦の奪取を続けた。
  • 【三十年戦争†訃報】1643年5月14日 フランス国王ルイ13世/リシュリュー枢機卿の陰に隠れて語られることが多いが、内政・外交両面の安定を図り国力を高めた絶対君主のひとりでもある。ラ・ロシェル攻囲戦をはじめとし、マントヴァ継承戦争やフランス・スペイン戦争でも自ら親征をおこなった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1643年5月14日 フランス国王ルイ14世即位/王政フランスでおそらく最も長く王位に就き、絶対王政の象徴ともいえる太陽王も、即位時はわずか5歳。ウェストファリア条約時点でも10歳になったばかりで親政前のため、三十年戦争時代には何ら活躍してはいない。
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  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1625年5月15日 テルヘイデンの戦い/ブレダ攻囲戦の最終盤、スピノラ将軍の守るブレダに対し、ホレス・ヴィアー将軍が一か八かの最後の襲撃を試みた。『アラトリステIII ブレダの太陽』のクライマックスでもその激しい攻防が描かれる。 https://www.amazon.co.jp/dp/4900405124/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_R2S-AbJ6J0VSD @amazonJP
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  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1648年5月15日 ミュンスター条約批准/ミュンスター講和条約(IPM)とは別物。ウェストファリア条約より一足早く西蘭二国間で交わされ、八十年戦争が終結した。 Vrede van Munster (1648) - Einde van de Tachtigjarige Oorlog http://bit.ly/2KqgNId via @historiek
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年5月16日 ユーバーリンゲン攻囲戦(1634)/1632年に一度スウェーデン・ヴュルテンベルク連合軍が失敗した攻囲に、スウェーデン軍のヨハン・バネール将軍が再度挑戦、砲撃を繰り返したが、水上からの輸送に事欠かない市に対し決定打が出せず3週間ほどで撤退した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1644年5月16日 リスター・ディブの戦い/トルステンソン戦争において、スウェーデンの援軍に現れたオランダ軍と、クリスチャン4世率いるデンマーク軍との戦い。デンマークは小型で小回りの利くオランダ船に封じ込められることになったが、人的犠牲はほとんどなかった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年5月17日 ミュンヘン入城/4/30のレヒ川の戦いでバイエルン公マクシミリアン1世に勝利したスウェーデン軍の国王グスタフ2世アドルフとレンナート・トルステンソンは、その勢いのまま、バイエルンの首都ミュンヘンに入城。バイエルン公は一時居城から逃亡した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1643年5月17日 ケンペンの戦い(1643)/フランス・ヴァイマール・ヘッセン連合軍を率いたフランスのゲブリアン元帥は、皇帝軍のハッツフェルト元帥の援軍が到着する前に、ド・ランボア男爵軍を攻撃することを決定。朝食時に襲撃を受けた皇帝軍は壊滅的な打撃を受けた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1648年5月17日 ツースマルスハウゼンの戦い/テュレンヌ元帥とカール・グスタフ・ウランゲル元帥によるフランス・スウェーデン連合軍が、皇帝・バイエルン連合軍を撃破。皇帝軍は、後衛の犠牲により、主力であるモンテクッコリ軍の退却を辛くも成功させた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年5月19日 フランス参戦/フランスはそれまで表に出ず皇帝反対派勢力を裏で支援していたが、スウェーデンおよび新教ドイツ諸侯の弱体化を受け、まずは同年オランダと攻守同盟を結んだうえでスペインに宣戦布告した。皇帝への宣戦布告は3年後の1638年となる。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1643年5月19日 ロクロワの戦い/ロクロワを包囲したフランシスコ・デ・メロ率いるスペイン軍を、アンギャン公(後のコンデ公)ルイ2世が撃退した戦い。スペインの斜陽を決定づけた戦いとして宣伝される。映画『アラトリステ』のラストシーンにもこの戦いが描かれた。
  • 【三十年戦争†訃報】1647年5月19日 セバスティアン・ヴランクス/三十年戦争期には多くの戦争画が描かれているが、その先駆け。騎兵の戦闘画・会戦画等の戦争画そのものや、兵士たちによる強盗・略奪のシーンなど戦時世相を描いたものが多い。 http://collectie.boijmans.nl/nl/maker/18873/Sebastiaan-Vrancx
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年5月20日 マクデブルクの略奪/ティリー伯とパッペンハイム伯の率いるカトリックの兵たちが、半年の攻囲の後開城したマグデブルクを徹底的に破壊しつくした事件。その悲惨さからドイツのプロテスタント諸侯とスウェーデンの結束を進める結果となった。
  • 【三十年戦争†訃報】1631年5月20日 ディートリヒ・フォン・ファルケンベルク/ドイツ上陸直前のスウェーデン軍に仕官し将校となる。マグデブルク守備隊長の任に着くが、その楽観主義がマグデブルクの略奪を招いた。略奪当日の朝、守備隊を集めていた際にマスケット銃で撃たれ戦死。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1635年5月20日 レ・ザヴァンの戦い/ブレゼ侯ユルバン・ド・マイエとコリニー・シャティヨン公ガスパール3世両元帥による、フランス宣戦後初の戦い。2倍の数で優るフランス軍は、カリニャーノ公トンマーゾ・フランチェスコ率いるスペイン軍を数時間で退却に追いやった。
  • 【三十年戦争†訃報】1648年5月20日 ポーランド国王ヴワディスワフ4世/1632年の即位の年にロシアからの侵攻を受け(スモレンスク戦争)これを撃退するが、対スウェーデンとは1635年に1629年の休戦協定を確認し、以降はドイツの戦争から距離を置いた。王権の強化を試みたが貴族の反対が強く失敗した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1626年5月21日 ポイエルバッハの戦い/オーバーエスタライヒ農民戦争で、農民軍はバイエルン軍のアダム・フォン・ハーバーストルフとポイエルバッハ付近で遭遇、仮ごしらえの軍にも関わらず相手を退却させた。この後反乱軍は勢いに乗っていくつかの街を手に入れる。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1629年5月22日 リューベックの和約/デンマーク国王クリスチャン4世と皇帝フェルディナント2世間で交わされた、デンマーク戦争の終結となる和約。クリスチャンには領土の安堵と帝国軍の撤退が約されたが、自身の問題以外でのドイツへの介入は禁じられた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年5月22日 エルヴァンゲン領占領/カトリック連盟のドル箱だったエルヴァンゲン領を、スウェーデンの将校シュペルロイトとデーゲンフェルトが占領。スウェーデンはこの地の宗教改革を試みたが、1634年のネルトリンゲンの戦いの3日後街は返還された。
  • 【三十年戦争†訃報】1638年5月22日 ファン・デン・ベルフ伯ヘンドリク/フランドル方面軍で主にスピノラ侯のもと30年以上の戦歴のある将軍だったが、南ネーデルランド執政イザベラを見限って従弟オランイェ公フレデリク=ヘンドリクに接近しオランダ側に転向。転向後は隠居して中立の立場をとった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1618年5月23日 プラハ窓外投擲事件/カトリック化を推進するボヘミア王フェルディナントへの反対派貴族が、王の使者とその書記計3名をプラハ城3階の窓から投げ落とした事件。後にこの日が三十年戦争の端緒とされた。ちなみに3人はいずれも命に別状はなかった模様。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年5月24日 プロテスタント同盟(ウニオン)解散/1608年に成立した「同盟」は当初よりルター派とカルヴァン派が混在したものだったが、盟主フリードリヒ5世がボヘミア王に即位すると、関わりを嫌って中立の立場を表明し、翌年皇帝の命によって正式に解散した。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年5月24日 モデナ公アルフォンソ3世デステ/1626年に妻に先立たれると、3年後に自ら退位を宣言してカプチン会の修道僧となる。跡を継いだ長男のフランチェスコ1世は優秀な為政者で、三十年戦争の最中に公国の利益のため慎重に相手を選び、自ら剣をとって戦った。
  • 【三十年戦争†訃報】1628年5月25日 カール・フォン・ハラハ/皇帝マティアスの時代からの宮廷顧問官で、ウスコク戦争の終戦条約にも関わり、フェルディナント2世の皇帝選出にも尽力したため皇帝に最も影響力があると言われた。後には、ヴァレンシュタインとその従兄弟に娘の2人を嫁がせた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1642年5月26日 オヌクールの戦い/フランスは主戦場をスペイン国境に近い南に移したため、北の守りは薄かった。リシュリュー枢機卿の腹心ギーシュ伯(後のグラモン公)は、フランドル方面軍のフランシスコ・デ・メロとほぼ同数での会戦を挑むが、激戦の末敗走した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1644年5月26日 モンティジョの戦い/ポルトガル王政復古戦争の中でも、決定的な5つの戦いの中では最初期のもの。互いに戦力の半分を失うほどの大激戦となり、双方が勝ち名乗りをした。ポルトガルの司令官アルブケルケは、この戦いの功でアレグレテ伯に叙せられた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1635年5月28日 ベルフォールの戦い/スウェーデンとフランスの連合軍が、ロレーヌ公シャルル4世率いる皇帝軍を撃退。ベルフォールはここ2年間で6回も攻囲戦が繰り返されていたが、これ以降はフランスの所有となり、ウェストファリア条約でも領有が認められた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1619年5月29日 ラー・アン・デア・ターヤー占領/街はハインリッヒ・マティアス・フォン・トゥルン伯率いるボヘミア軍に占領され、約1年半の間に経済的に衰退し、重要な文書等も失われた。さらに1645年にスウェーデン軍が駐留した後、ほとんどの家屋が荒廃した。
  • 【三十年戦争†訃報】1640年5月29日 エリーザベト・ユリアナ・フォン・エアバッハ/夫と死別した後、スウェーデン軍のヨハン・バネール元帥の妻の看病をすることになる。彼女の遺言でバネール元帥と再婚。兵たちから母親のように慕われた。熱病で死亡したが、バネールも後を追うように翌年病死する。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年5月30日 フォンテーヌブロー条約/フランス国王とバイエルン選帝侯間の攻守条約で、ここでフランスはバイエルンの選帝侯位を正式に認定した。しかし同年のスウェーデン軍のドイツ上陸をめぐり、両国は条約に反する対応をとったため、実質無効となった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年5月30日 プラハ条約/ネルトリンゲンの戦いの勝利で優位となった皇帝が、1629年の復旧令を取り下げることを条件に、新教側のブランデンブルク選帝侯・ザクセン選帝侯・ハイルブロン同盟司令官のザクセン・ヴァイマール公をも抱き込んで締結した和平条約。
  • 【三十年戦争†訃報】1640年5月30日 ペーテル・パウル・ルーベンス/フランドルの画家。非常に多筆且つジャンルも広く、肖像画・歴史画・宗教画など多岐に活躍した。南ネーデルランド執政府付きの宮廷画家でもあり、その顔の広さから外交活動もおこなった。『フランダースの犬』の祭壇画は彼の作品。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年5月31日 ミュンスター占領/ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公とヘッセン・カッセル軍によるヴェストファーレン地方の一連のキャンペーン。5/18にリューネン、5/26にハムを相次いで占領した後、ミュンスターに至った。ここで軍を増強しさらに攻勢に出る。

6月

  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1646年6月1日 リンツ証書/神聖ローマ皇帝フェルディナント3世によってリンツで発行された証書(Diplom)。スウェーデンの脅威にさらされたブレーメン市は、1641年に一度は却下されたものの、5年後となるこのときには皇帝の臣下である帝国直属身分とされた。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年6月2日 ナッサウ・ディーツ伯エルンスト・カシミール/オランダ八十年戦争における軍制改革の実践者の第1世代。オランダ軍の彼のキャンプには多くの将校が押し掛けて戦争を学び、のち三十年戦争で活躍した者も多い。マース川沿いの遠征時に流れ弾に当たり戦死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年6月3日 オランダ西インド会社設立/オランダ西インド会社設立/スペインとの十二年休戦明けに、私拿捕とカルヴァン派の布教を目的に設立される。しかし、最終的には奴隷貿易で悪名を馳せることになった。3 juni 1621 - De West-Indische Compagnie wordt opgericht https://vandaagindegeschiedenis.nl/3-juni/#.WxOj9EjkEfl.twitter
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年6月3日 フィリップスブルク占領/ウーデンハイムと呼ばれていた街は、トリアー選帝侯フィリップ・クリストフにちなんで改名。1634年にスウェーデン軍によって占領され、その後スウェーデンとフランスの同盟により、フランス軍にもライン川の対岸側が開放された。
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  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年6月5日 ブレダ開城(1625)/11ヶ月にわたる攻囲の末、スピノラ将軍がオランイェ公のフラッグ・シティでもあるブレダを攻略した。ベラスケスの傑作『ブレダの開城』でも有名。 The Surrender of Breda - The Collection - Museo Nacional del Prado https://www.museodelprado.es/en/the-collection/art-work/the-surrender-of-breda/0cc7577a-51d9-44fd-b4d5-4dba8d9cb13a
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  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1639年6月7日 ティオンヴィル攻囲戦/フランスのフキエール侯イザック・マナセ・ド・パが攻囲するロレーヌのティオンヴィル(ディーデンホーフェン)を、皇帝軍のピッコロミーニ元帥が救援。敗れたフキエール侯は捕虜となり、この時の傷がもとで翌年3月に死亡する。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1640年6月7日 「血塗られた聖体祭」/フランス・スペイン戦争において、カタルーニャに軍を駐留させていたスペインに対し、カタルーニャの農民たちが鎌を持って駐屯地を襲撃、副王をはじめ貴族たちを殺害した。これがカタルーニャ反乱の始まりとされ以降20年近く続く。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1637年6月8日 哲学者ルネ・デカルトが『方法序説』をレイデンで出版/「あの戦争(三十年戦争)に心ひかれて私はそこ(ドイツ)へ行っていたのである(第二部)」。若い頃のデカルトは、「武器を好ましめた肝臓の熱」のため(要は血気に逸って)、軍隊に志願していた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1626年6月9日 ハノーフェルシュ・ミュンデン攻囲戦/5日間の砲撃の末、「血の聖霊降臨祭」に10000人にのぼるティリー伯の軍勢に占領され、800人のデンマーク人守備隊と、ほぼ街の人口にあたる2000人の住民が虐殺された。砲に対して脆弱だった城塞も原因とのこと。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1619年6月10日 ザーブラティーの戦い/チェスケー・ブジェヨヴィツェを攻囲するホーエンローエ伯の援軍として進軍していたマンスフェルト伯を、皇帝軍のブッコワ伯が待ち伏せて襲撃。マンスフェルト伯が物資を残して敗走したため、攻囲戦も引き上げざるを得なくなった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1622年6月10日 ロルシュの戦い/ヘーヒストの戦いに先立って行われた、マンスフェルト伯とティリー伯による小競り合い。これによりマンスフェルト伯の進軍を一時留めた。この際に『ロルシュ福音書 Codex Aureas』が盗まれ、転売しやすいように二分割されてしまった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1624年6月10日 コンピエーニュ条約(1624)/休戦の期限が切れスペインとの戦争を再開したオランダに対し、フランスは資金援助を行い、逆にオランダはフランスに海上での支援をするという仏蘭間の条約。フランスにとってはハプスブルク牽制の意図もあった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1630年6月10日 His Eminenceの称号が登場/教皇ウルバヌス8世は、枢機卿たちの称号として「His Eminence」(日本語だと「猊下」)を付与する。聖職者にも高位貴族出身者が増えていたが、彼らの世俗要素を排除するため、称号も新しいものが用意された。
  • 【三十年戦争†訃報】1642年6月10日 ザクセン・ラウエンブルク公フランツ・アルプレヒト/リュッツェンの戦いで撃たれた国王を見捨てて逃げたとしてスウェーデンから恨まれたり、ヴァレンシュタインの裏切りの共謀者として皇帝にも逮捕されたりと、踏んだり蹴ったりの人。対スウェーデン戦で戦死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年6月13日 英国王チャールズ1世が仏王女ヘンリエッタ・マリアと結婚/わずか2年前、チャールズ本人がスペイン王女との縁談のためにマドリードへ訪問していたほどのイングランドの親スペイン政策は、その直後に瓦解。戦争とともに婚姻政策も見直された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1636年6月13日 ハーナウ要塞解放/1635年9月以降9か月にわたって皇帝軍のランボイ将軍に攻囲されていたハーナウを、ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム5世とレスリー将軍のヘッセン・スウェーデン連合軍が解放。その後の要塞の守備にはラムゼイ将軍が就いた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1634年6月14日 アイヒャッハの戦い/スウェーデンのグスタフ・ホルンに包囲されていたアイヒャッハを、フォン・ヴェルトとアルドリンゲン率いるバイエルン軍が救援。しかしアウグスブルクとレーゲンスブルクの途上にある街は何度も荒らされ、この時もほぼ焼失した。
  • 【三十年戦争†訃報】1636年6月14日 トワラ侯ジャン・ケラール・ダンデューズ・ド・サン・ボネ/自身ユグノーでありながら、ラ・ロシェル攻囲戦では国王軍側で活躍し元帥となった。マントヴァ継承戦争後にフランス大使となるが、サヴォイア軍との同盟戦争に参戦してイタリアで戦死する。
  • 【三十年戦争†訃報】1646年6月14日 フロンサック公ジャン・アルマン・ド・マイユ・ブレゼ/リシュリュー枢機卿の甥で、コンデ公ルイ2世の義理の兄。フランス提督として、海戦で三十年戦争に貢献した。オルベテッロの戦いで戦死。後のフランスの軍艦には彼の名を冠したものもいくつかある。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1648年6月14日 ヴェーフェリングホーフェンの戦い/ヘッセン戦争内の戦い。戦場はユーリヒ領内となったが、領主プファルツ・ノイブルク伯は最後まで中立を保った。ヘッセン連合軍は2倍の数の皇帝軍に快勝、皇帝フェルディナント3世は和平交渉をさらに加速させた。
  • 【三十年戦争†訃報】1626年6月16日 ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公クリスティアン/マンスフェルト伯と並ぶ、三十年戦争前半の新教陣営の極悪傭兵隊長のひとり。活躍時期の短さにもかかわらずエピソードには事欠かない。くわしくはウェッジウッドの『ドイツ三十年戦争』で!
  • 【三十年戦争†訃報】1633年6月17日 モンテクッコリ伯エルネスト/モンテクッコリ伯ライモンドの叔父。白山の戦い、フランドル戦線、スウェーデン戦争に参戦した歴戦の皇帝軍将軍。1632年以降はアルザスでヴュルテンベルク・ヴァイルティンゲン公を相手に戦った。ブライザッハ救援時の傷が元で死亡。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1647年6月17日 レリダ攻囲戦(1647)/カタルーニャ反乱で何度も舞台となったレリダの3度めの攻囲戦。フランス軍は前年に自分たちが敷いた環状攻囲戦を利用して有利に事を進めたかに思えたが、結局失敗した。コンデ公となったばかりのルイ2世の初の失敗でもあった。
  • 【三十年戦争†訃報】1633年6月18日 ピート・ピーテルスゾーン・ヘイン/オランダの海軍提督。東インド会社、次いで西インド会社で活躍し富を得る。1628年のスペイン銀艦隊の拿捕(マタンサス湾の海戦)で名高く、その功績でオランダ海軍総司令官の地位を得た。そのわずか半年後にダンケルクで戦死。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年6月18日 アンリ・ド・スルディ/戦う大司教。貴族が敬遠する海軍に身を置き、フランス・スペイン戦争では大西洋艦隊を、カタルーニャ反乱が勃発すると地中海艦隊を率いて活躍した。リシュリュー枢機卿と対立したため自ら退役し、本来のボルドー大司教の職務に戻った。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年6月19日 ケラスコ条約/マントヴァ継承戦争の和平条約。教皇特使マッツァリーノの調停によって、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国、サヴォイア間で調印された。ドイツ不干渉条項が撤廃されたことが、フランスの4年後の三十年戦争参戦の布石となった。
  • 【三十年戦争†訃報】1636年6月19日 ハーナウ・ミュンツェンベルク伯ヤーコプ・ヨハン/ハーナウ・ミュンツェンベルク伯の五男。三兄ハインリヒ・ルートヴィヒとスウェーデン軍に勤務した後、亡命した長兄フィリップ・モーリッツの代理で自領の代官となる。後ベルンハルト軍に加わりアルザスで戦死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1646年6月19日 トリアー選帝侯とフランスの同盟/1635年以来10年間皇帝の虜囚にあったトリアー選帝侯フィリップ・クリストフは、選帝侯選挙において再選されるため、フランスにフィリップスブルク要塞を提供して協力を依頼する。しかし結果はうまくいかなかった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1622年6月20日 ヘーヒストの戦い/ティリー伯のカトリック連盟軍とコルドバ将軍のスペイン軍が、舟橋で渡河中のブラウンシュヴァイク公クリスティアンを襲撃。クリスティアンは追撃を逃れ退却に成功したものの、数千人の傭兵を、戦死ではなく溺死させてしまった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1636年6月20日 マーティン・アイヒンガーの処刑/宗教運動・農民運動のリーダーであるマーティン・アイヒンガーが、信者300人と共に蜂起。フランケンベルクの戦いで反乱軍は壊滅、アイヒンガーは捕虜となった後、リンツの広場で信者の1人と一緒に処刑された。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1638年6月20日 カロの戦い/アントウェルペン攻略を進めるオランダに対し、スペインの枢機卿王子フェルナンドが明け方の奇襲によりオランダの本隊を殲滅。実に60年前のジャンブルーの戦いに次ぐ野戦での大勝利を演じた。「テルシオ」の脅威はこの時期でも衰えていない。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年6月21日 プラハ旧市街広場の処刑/クリシュトフ・ハラント等をはじめとする「ボヘミアの反乱」のプロテスタント指導者27名(3人の貴族、7人の騎士、17人の市民) が斬首された。没収されたその財産は、ヴァレンシュタイン等皇帝派の貴族に分配された。
  • 【三十年戦争†訃報】1621年6月21日 クリシュトフ・ハラント/戦う音楽家。ハプスブルク家に近しい幼年時代を送り、皇帝ルドルフ2世の側近も務めていたが、1618年に改宗してボヘミアの反乱に参加。白山の戦いで敗れた後に逮捕され、プラハで処刑された。作品は散在してしまい現存するものは少ない。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1636年6月22日 トルナヴェントの戦い/レガネス侯率いるスペイン軍が、ティチーノ川に差し掛かったフランス軍のポワ公シャルル2世・ド・ケルキー元帥を襲撃。サヴォイア公ヴィットーリオ1世アメデーオの援軍が到着したことで形成は逆転し、スペイン軍は撤退した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年6月26日 リヴェルダン条約/フランス国王ルイ13世と、ロレーヌ公シャルル4世間の条約。フランスが占領地をロレーヌ公に返却する見返りに、ロレーヌはフランス軍の通行を容認し有事にはフランス軍の友軍となること、弟の二コラ2世を人質とする等が約された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1637年6月26日 エーレンブライトシュタイン要塞奪還/トリアー選帝侯フィリップ・クリストフはエーレンブライトシュタイン要塞の占有権をフランスに与えていたが、選帝侯が皇帝に逮捕された2年後、バイエルン軍のヨハン・フォン・ヴェルトによって占領された。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1629年6月27日 シュトゥム(トシュチャナ)の戦い/神聖ローマ皇帝からの援軍としてポーランド軍に与したアルニム軍が、スウェーデン国王グスタフ2世アドルフを破った戦い。だがこの戦いの後にアルニムは皇帝軍からスウェーデン側に鞍替えすることになる。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1634年6月27日 ボルケンの戦い/ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公とヘッセン・カッセル軍によるヴェストファーレン地方の一連のキャンペーンのひとつ。軍を増強しリッペ川に戻った両軍は、皇帝軍のベニングハウゼン将軍をライン川の川向こうに駆逐した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1629年6月28日 アレスの和平/ラ・ロシェル攻囲戦でのユグノー軍の敗北を受け、仏国王ルイ13世との間に調印された和平。ユグノー側は政治的・軍事的な特権が剥奪されたが、ナントの勅令に従って信教の自由は保障された。このことから「慈悲の勅令」とも呼ばれる。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1639年6月28日 皇帝軍のピッコロミーニ元帥は、フランス戦線に投入されスペイン軍との共闘が多かったが、1639年6月7日のティオンヴィル救援の功によりスペイン国王フェリペ4世によってアマルフィ公を授けられた。さらに1644年には金羊毛騎士にも叙せられている。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1641年6月29日 ヴォルフェンビュッテルの戦い(1641)/皇帝軍が占領するヴォルフェンビュッテル解放のため、スウェーデン・フランス連合軍はヴェルフ家と同盟する。連合軍はレオポルト大公率いる皇帝軍の援軍を退却させたが、代償に旧バネール配下の古参兵を多数失った。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1638年6月30日 ハンブルク条約/2年前のヴィスマール条約を再確認したもの。フランスのリシュリュー枢機卿とスウェーデン女王の代表団間で調印され、対ハプスブルクの戦闘条項の再確認をしたうえで、フランスがスウェーデンに軍資金の援助をすることとした。
  • 【三十年戦争†訃報】1639年6月29日 ジェームズ・ラムゼイ/スウェーデン軍将校。スウェーデンがハーナウを占領した後その守備隊長となるが、皇帝軍と和解したハーナウ伯が帰還すると彼を監禁。それを良しとしない地元の伯たちによるクーデターで失脚・負傷し、翌年その傷が元で死亡した。

7月

  • 【三十年戦争†訃報】1637年7月1日 クリストフ・フォン・ドーナ/プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の侍従長。白山の戦いで敗れて後、選帝侯の亡命を助けた。妻がオランイェ公妃アマーリアの姉だった縁で、オランイェ公フレデリク・ヘンドリクより南仏のオランジュ公領の代官を任された。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1644年7月1日 コルベルゲル・ハイデの海戦/トルステンソン戦争中の海戦。決定的な勝利ではなかったが、デンマーク軍がスウェーデン軍に一矢報いた。デンマーク国王クリスチャン4世が片目を失いながらも軍を鼓舞したロマン主義絵画でも有名。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chr_4_ved_hojen_mast.jpg
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年7月2日 ラインベルク攻囲戦/何度も所属を変え「戦争の娼婦」と呼ばれた街の八十年戦争最後の大規模攻囲戦。オランイェ公フレデリク・ヘンドリクのキャンプには、且つて共に戦争を学び、今や三十年戦争の傭兵として身を立てている3人の昔馴染みが集まった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1620年7月3日 ウルム条約(1620)/「リーガ」と「ウニオン」の代表者の間で署名された条約。協定の条項に基づいてウニオンは中立を宣言し、同盟の盟主たるフリードリヒ5世を支持しないこととした。これによってフリードリヒ5世の政治的な孤立が確定してしまった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1630年7月3日 レーゲンスブルク帝国会議(1630)/「復旧令」に危惧を抱いた新旧教両選帝侯たちは、皇帝に対してその長男フェルディナントのローマ王選出を盾に、復旧令の撤回とヴァレンシュタインの罷免を求めた。皇帝は前者は譲らなかったが後者には同意した。
  • 【三十年戦争†訃報】1642年7月3日 マリー・ド・メディシス/フランス国王アンリ4世妃、ルイ13世王母。次男ガストンを王位に就けるべく、何度も長男ルイやリシュリュー枢機卿に対して陰謀を企んだ。画家のルーベンスに24枚の連作を依頼したことでも知られる。1631年以降はフランスを追放された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年7月4日 ルーヴァン攻囲戦/仏蘭攻守同盟により、シャティヨン公ガスパール3世とオランイェ公フレデリク・ヘンドリクが共同でフランドルに侵攻。しかし連携と補給の拙さが災いし、枢機卿王子フェルナンドとピッコロミーニ元帥の連合軍に敗れ攻囲を引き上げた。
  • 【三十年戦争†訃報】1626年7月5日 シュテファン・ファドリンガー/オーバーエスタライヒ農民戦争において、義理の弟クリストフ・ツェラーと共に農民を率いたリーダー。軍事経験豊富でリーダーシップもあり、短期間で反乱軍をまとめた。偵察中に撃たれ、1週間後に敗血症で死亡した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1623年7月6日 ライフェンハウゼンの戦い/ゲッティンゲン付近のライフェンハウゼンで、当時皇帝軍に所属していたザクセン・ラウエンブルク公フランツ・アルプレヒトを、ブラウンシュヴァイク公クリスティアンが破った。フランツは若年期クリスティアンの父に仕えていた。
  • 【三十年戦争†訃報】1629年7月6日 ゲオルク・フリードリヒ・フォン・グライフェンクラウ/ヴォルムス大司教かつマインツ選帝侯。マインツ選帝侯領フォルラーツ城で生まれた地元の有力貴族。選帝侯としての任期は短いが、帝国大法官として「復旧令」を著すなど重要な役割を果たしている。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年7月6日 ポンメルン上陸/国王グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍が、ウーセドム島のペーネミュンデ付近に上陸。下船するときに国王は滑って転んだが、そのままひざまづいて航海の無事を神に感謝したというエピソードは有名。全軍の上陸には2日かかった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1641年7月6日 ラ・マルフェの戦い/リシュリュー枢機卿に対する陰謀で結託したフランスの3人の貴族が、スペイン軍の助力を得てフランス国王軍と激突、壊滅的な打撃を与えたかにみえた。しかし戦闘中、中心人物であるソワソン伯の不審死により反乱軍は瓦解した。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年7月7日 ホーエンローエ・ノイエンシュタイン伯ゲオルク・フリードリヒ/傭兵隊長として信教を問わず戦歴を重ねてきたが、結婚を機にボヘミアに基盤を持ち皇帝と対立。フェルディナント2世から二度の帝国アハト刑を受けた。皇帝の代替わり時に隠居を条件に恩赦を受ける。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1647年7月7日 ナポリ共和王国の成立/スペインの支配に対して、扇動者マサニエッロが反乱を起こし、フランス(ギーズ公アンリ2世)の保護のもとナポリ共和王国が成立。しかしマサニエッロはそのわずか9日後に暗殺される。翌年スペイン軍に鎮圧され消滅した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1633年7月8日 オルデンドルフの戦い/スウェーデン国王グスタフ2世アドルフの戦死後初の新教側の勝利らしい勝利。プロテスタント諸侯に希望を与えたが、翌年のネルトリンゲンの戦いによって結局再度バランスは崩れる。三十年戦争では実は少ない会戦らしい会戦でもある。
  • 【三十年戦争†訃報】1636年7月8日 ジョン・ヘップバーン/スコットランドの職業軍人。本人はカトリックでありながら、マンスフェルト伯軍その後スウェーデン軍と新教側で転戦した。1632年に急遽フランス軍に仕官。リシュリュー枢機卿の信頼も厚かったが、サヴェルヌ攻囲戦中に戦死した。
  • 【三十年戦争†訃報】1621年7月10日 ブッコワ伯シャルル・ボナヴァンチュール・ド・ロンギュバル/三十年戦争最初期のボヘミアの反乱に対処した皇帝軍元帥。とくに白山の戦いでは司令官としてフリードリヒ5世軍を駆逐し、褒賞として多くの所領を得る。翌年のノヴェー・ザームキ攻囲戦中に戦死。
  • 【三十年戦争†訃報】1647年7月10日 カスパール・コルネリウス・モルテン・ド・ポテルス/キャリアをヘッセン・カッセルでスタートさせるが、主人の死に伴いスウェーデン軍に加わった。バネール将軍の死後一時期司令官職に就くが、晩年はヘッセン・カッセルに戻りヘッセン戦争中に戦死した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1620年7月12日 エッゲンブルクの戦い/ウィーン攻囲を目指すベトレン・ガーボルに対しブッコワ伯は皇帝軍を率い、ボヘミア軍のドナウ川渡河を阻もうとする。ウィーン近郊のエッゲンブルクでトゥルン伯率いるボヘミア軍を撃退、その後軍を増強してさらなる侵略に備えた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1627年7月12日 サン・マルタン・ド・レ攻囲戦/バッキンガム公率いるイングランド軍がフランス・ユグノー軍の立てこもるラ・ロシェル救援を目的に、沖合のレ島に上陸した日。島内の都市サン・マルタンの抵抗は激しく、3ヶ月以上の攻囲の末、イングランド軍は撤退した。
  • 【三十年戦争†訃報】1621年7月13日 執政オーストリア大公アルプレヒト7世/オランダとの十二年休戦中に南ネーデルランド執政として文化振興に努めた。戦争再開直後に病死。同年に国王フェリペ3世も死去して権力の入れ替わりが起こり、スペインの対オランダ政策は強硬路線に舵を切ることになる。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年7月13日 ハーメルン攻囲戦/ハーメルンを攻囲していたブラウンシュヴァイク・リューネブルク公とヘッセン・カッセル軍は、オルデンドルフの戦いで皇帝軍の救援に勝利し、その1週間後にはハーメルンも開城させた。彼らは翌年も、新教側の勝利に貢献した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1636年7月14日 サヴェルヌ占領/ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトがアルザス地方のサヴェルヌを占領。1635年以降、サン・ジェルマン・アン・レー条約でフランスと契約して以降、ベルンハルトはアルザスの領有を目論んでいくつかの都市を奪取していた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年7月15日 ラインフェルデン攻囲戦(1633)/スウェーデン軍のザルム伯オットー・ルートヴィヒによる10日間の攻囲の末ラインフェルデンが陥落。しかしその3か月後、スペインのオリバーレス公伯爵の肝入りでライン地域遠征が計画され、フェリア公によって奪還された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1638年7月16日 サン・トメール攻囲戦/フランスのシャティヨン元帥の攻囲軍をスペイン軍のカリニャーノ公が夜襲し打撃を与えた。フランス軍には当年80歳のド・ラ・フォルス公の援軍が加わったが、先方にも皇帝軍のピッコロミーニ元帥が到着し、フランス軍は退却した。
  • 【三十年戦争†訃報】1642年7月16日 第5代ノチェーラ公フランチェスコ・マリア・カラファ/イタリア人傭兵で、スペイン国王フェリペ四世に仕える。フランドル、マントヴァ、ネルトリンゲンの戦いを経てアラゴン副王となる。オリバーレス公伯爵のカタルーニャ反乱への対応に反対して逮捕、獄死した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年7月17日 ツヴァイブリュッケン防衛/皇帝軍のマティアス・ガラス将軍の接近を受け、領主プファルツ・ツヴァイブリュッケン伯ヨハン2世はメッツに向け亡命する。その留守を預かるラインホルト・フォン・ローゼン将軍はガラス将軍の撃退に成功した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1620年7月18日 「聖なる流血」事件/カトリック勢力の多いヴァルテリーナで、スペイン軍の支援を受けた反乱軍がプロテスタントを殺戮、ほぼすべてのプロテスタント勢力が駆逐された。グラウビュンデン紛争の開始の事件とされ、のちのマントヴァ継承戦争にも関わる。
  • 【三十年戦争†訃報】1626年7月18日 クリストフ・ツェラー/オーバーエスタライヒ農民戦争において、義理の兄シュテファン・ファドリンガーと共に農民を率いたリーダー。居酒屋の息子で、若年期に傭兵稼業であちこち放浪した後、故郷で居酒屋を営んでいた。リンツ攻囲中に心臓発作で死亡した。
  • 【三十年戦争†訃報】1628年7月18日 ヴュルテンベルク公ヨハン・フリードリヒ/平和主義の為政者だったが、プロテスタント同盟の設立者のひとりだったことで領地も三十年戦争に巻き込まれる。同盟の解散後もフリードリヒ5世を支援し独自に軍を出した。ハイデンハイムに向かう途上で急死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1630年7月18日 マントヴァ略奪/マントヴァ継承戦争中に皇帝軍によって攻囲されたマントヴァが陥落、マティアス・ガラスとアルトリンゲン伯によって徹底的に破壊・略奪された。マントヴァ公の宮殿からは宝物類が持ち出されたり、名画や蔵書の多くも灰となった。
  • 【三十年戦争†訃報】1639年7月18日 ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルト/ブライテンフェルト、リュッツェン、ネルトリンゲン、フライブルクなど、著名な戦いに多く参戦。スウェーデンやフランスと契約したが、性格と野心が災いして雇用主との関係は良くなく、その病死は暗殺とも言われている。
  • 【三十年戦争†訃報】1642年7月18日 ナッサウ・ヒルヒェンバッハ伯ヴィルヘルム/オランダ軍元帥。軍制改革後のオランダ軍の第2世代として活躍した。カトリックに転向した皇帝軍・スペイン軍の実兄ナッサウ・ジーゲン伯ヨハン8世と何度も戦った。ナッサウ・ジーゲン伯ヨハン・マウリッツは異母弟。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1647年7月18日 エーガー占領/1634年にヴァレンシュタインが暗殺された街エーガーを、1647年にスウェーデン軍が包囲、占領。翌年に一度住民がスウェーデン軍の退去を求めて蜂起したが、結局スウェーデン軍はウェストファリア条約後の1649年まで占拠を続けた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1630年7月20日 シュテッティン占領/グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍が街を占領、近郊のオーダーブルクに陣地を設けた。占領中、スウェーデン軍によって街とその周辺は要塞化され、1648年のウェストファリア条約後もスウェーデン統治は続いた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1626年7月21日 リンツ防衛/オーバーエスタライヒ農民戦争において、バイエルン軍のアダム・フォン・ハーバーストルフが農民の反乱軍からリンツを防衛した。この後、義理の息子であるパッペンハイム伯の援軍を得て、占領された都市はすべて奪還されることになる。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年7月21日 ハーナウ・ミュンツェンベルク伯ハインリヒ・ルートヴィヒ/ハーナウ・ミュンツェンベルク伯の三男。ブレーメンの大聖堂の名目上(収入目的)の聖職者の地位を得て、スウェーデン軍のちオランダ軍に加わる。マーストリヒトで戦死。アマーリエ・エリーザベトは長姉。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1640年7月21日 カディスの戦い(1640)/フランスのマイユ・ブレゼ提督は、新大陸帰りのスペイン戦をカディス付近で待ち受け、当時はめずらしい戦術の左右からの挟撃で勝利を得た。スペイン側は船2隻を失ったものの、貨物を積んだ船は拿捕されず航海を全うした。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1634年7月22日 ランツフートの戦い/ザクセン・ヴァイマール公とグスタフ・ホルン率いるスウェーデン軍がランツフートの街を急襲し奪取。救援に駆け付けた皇帝軍のアルドリンゲン伯ヨハンはこの戦いで戦死した。スウェーデン軍はその後街を13日間略奪した。
  • 【三十年戦争†訃報】1634年7月22日 アルドリンゲン伯ヨハン/デンマーク戦争・マントヴァ継承戦争・スウェーデン戦争の主要な戦いの多くに参加している皇帝軍・バイエルン軍の元帥。マティアス・ガラスと仲が良かった(義理の兄弟でもある)。ランツフートの戦いで戦死し、非常に惜しまれた。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年7月22日 オリバーレス公伯爵ガスパール/スペイン国王フェリペ4世の寵臣として、経済・外交・内政すべての分野に渡り、傾きかけたスペイン王国の立て直しに尽力した。とくに軍事への強硬路線が反乱や国内の貴族勢力の批判を誘発し、失脚の末翌年に消耗死した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年7月23日 ドルトムント占領/マグデブルクからマーストリヒトに向かう最中に、パッペンハイム伯が軍勢を要求。それを拒否した市は砲撃を受け、2日で陥落した。その後パッペンハイム伯は軍の一部をドルトムントに残し、最終的に半年ほど占領状態が続いた。
  • 【三十年戦争†訃報】1646年7月24日 ヴォルフ・ハインリヒ・フォン・バウディッシン/デンマーク出身。グスタフ2世アドルフ国王存命中はスウェーデン軍で戦ったが、のち将校たちとの不仲が原因でザクセンに移籍し元帥としてスウェーデン軍と敵対する。怪我で退役後は外交官として活躍した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1648年7月25日 プラハの戦い/ウェストファリア条約交渉の最終局面と同時に、スウェーデンが自国の有利のため旧帝都のプラハを攻囲した戦い。条約締結後の11/1まで続けられ、プラハ城こそ陥落しなかったものの、旧市街は略奪に遭い、多くの美術品が持ちされられた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1621年7月25日 ノビー・イーチンの戦い/「白山の戦い」で敗北したプロテスタント勢力のうち、ブランデンブルク・イェーゲンドルフ辺境伯ヨハン・ゲオルク(選帝侯と同名だが別人)に率いられた一派がカトリックに一矢報いた戦い。北モラヴィアを一時支配下に置いた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年7月26日 ヴァレンシュタイン、皇帝軍総司令官に就任/皇帝フェルディナント2世は、ヴァレンシュタインに軍隊徴募の権利を与えたうえで総司令官に任命した。この直後、ヴァレンシュタインは北ドイツ方面に向かい、デンマーク戦争で活躍することになる。
  • 【三十年戦争†訃報】1630年7月26日 サヴォイア公カルロ1世エマヌエーレ/ボヘミアの反乱当初は自身が神聖ローマ皇帝になる野望を持ち、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世を支援。信教を問わず傭兵を雇ったり、新教側・旧教側に与したり、ジョーカー的な立ち位置。マントヴァ継承戦争中に病死した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年7月26日 レーゲンスブルク攻囲戦(1634)/スウェーデンのラルス・カッグ将軍の防衛する街を、皇帝軍を率いるフェルディナント(のちの3世皇帝)が2ヶ月に渡る攻囲の末開城させた。ザクセン・ヴァイマール公による二度の救援の試みはいずれも失敗に終わった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年7月26日 ラ・モット・アン・バシニー攻囲戦/弟二コラ2世にロレーヌ公位を奪われた兄シャルル4世が、再度ロレーヌ公を称して、フランス軍のロレーヌ侵攻に対して抵抗する。最後の砦となったラ・モットだったが7/26に降伏、シャルル4世は亡命した。
  • 【三十年戦争†訃報】1635年7月26日 ヨハン・フィリップ・クラッツ・フォン・シャーフェンシュタイン/皇帝軍元帥として白山の戦い以来活躍。しかしヴァレンシュタインとの不仲が原因で、レヒ川の戦いの後スウェーデン軍に転向。ネルトリンゲンの戦いで捕虜となり、翌年反逆罪で処刑された。
  • 【三十年戦争†訃報】1626年7月27日 ヘッセン・ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世/ヘッセン・マールブルク方伯の遺領と遺言(ルター派の保持)をめぐり、従兄のヘッセン・カッセル方伯モーリッツと対立した。モーリッツがカルヴァン派に改宗したため、ルートヴィヒはカトリックの皇帝を頼った。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年7月27日 エーレンバーグ砦防衛/皇帝の末子大公レオポルト・ヴィルヘルムが、スウェーデン軍を率いたザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトからエーレンバーグ・バイ・ロイテ砦とその周辺を防衛。レオポルト・ヴィルヘルムの最初期の戦功に数えられる。
  • 【三十年戦争†訃報】1638年7月27日 ナッサウ・ジーゲン伯ヨハン8世/新教徒のナッサウ家の一員でありながら、旧教徒として皇帝軍・スペイン軍に身を置き、実の兄弟とも何度も刃を交えた。ベラスケスの『ブレダの開城』にもスペイン将校として描かれる。サン・トメール攻囲戦の最中に病を得て急死。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1631年7月28日 ヴォルミルシュテットの戦い/皇帝軍の騎兵が駐屯地ヴォルミルシュテットからブルクシュタルへ移転した隙を狙い、グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍が、ハインリッヒ・フォン・ホルク麾下の皇帝軍を襲撃。皇帝軍は激しい抵抗を見せたが敗れた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1635年7月28日 シェンケンシャンツ奪取/フランスがオランダと合同で三十年戦争に参戦し南ネーデルランドに展開すると、対するスペインは共同戦線の分断を図るためライン地域を脅かす。9か月に及んだ攻囲戦で街の奪取は叶わなかったが、オランダの足止めには成功した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1641年7月29日 ヘネプ攻囲戦/オランダがマース川沿いのスペイン領ヘネプを奪取。この後オランダは戦地をゼーウス・フラーンデレンに移す。対するスペイン側の傭兵隊長タラ子爵トーマス・プレストンは、ヘネプ開城の直後、故郷で勃発したアイルランド反乱に転戦した。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年7月29日 ウルバヌス8世/三十年戦争の期間中、20年以上ローマ教皇の座についていた教皇。時代の必然性から政治や軍事にも介入した。ウルバヌス8世の治世中に教皇領は最大となったが、ガリレオに対する裁判や行き過ぎた親族重用主義という負の面もある。
  • 【三十年戦争†訃報】1624年7月30日 ベルンハルディン・フォン・ハーバーシュタイン/神聖ローマ皇帝フェルディナント2世のスティリア時代からの顧問官。後に帝国の枢密院顧問。オーストリア外の出来事には口出しせず、さらに1622年には隠居したため、あまり三十年戦争には関わっていない。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1644年7月30日 レリダ攻囲戦(1644)/フランス・スペイン戦争で、1642年にフランス軍のフィリップ・ド・ラ・モート・ウーダンクールに奪われたレリダを、前年モンソンを奪還した実績を買われ、老将のフェリペ・ダ・シルバが奪還する。なおシルバは同年中に病死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1619年7月31日 ボヘミア連盟の結成/王冠領の非カトリックの諸邦がボヘミア連盟を結成。再び選挙による国王選出制度を復活させ、プロテスタントが事実上の国教とされた。しかし翌年の白山の戦いで敗れると同時に、この連合国家も消滅するに至った。

8月

  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1631年8月1日 ヴェルベンの戦い/スウェーデン国王グスタフ2世アドルフのドイツ上陸の報を受け、皇帝軍のティリー伯は北へ急行する。エルベ川のほとりで両者は対峙したが、スウェーデン騎兵を率いたバウディッツ伯のチャージでティリー伯は退却に追い込まれた。
  • 【三十年戦争†訃報】1638年8月3日 ハーナウ・ミュンツェンベルク伯フィリップ・モーリッツ/長男として成人後伯位を継ぐ。状況が変わると皇帝軍→スウェーデン軍→皇帝側→新教側→皇帝側と何度も立場を変え、最後は他力本願で領地ハーナウを取り戻してもらった。アマーリエ・エリーザベトは長姉。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1644年8月3日 フライブルクの戦い①/アンギャン公+テュレンヌ元帥 VS メルシーというマニア垂涎の3日に渡る戦い。第1日、ボールの戦い。フランス軍が山地から下り、キャンプを敷いていたバイエルン軍を強襲。雨も手伝って、メルシーはいったん兵を引いた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1645年8月3日 ネルトリンゲンの戦い(1645)/前年のフライブルクの戦いで雌雄を決せなかった「アンギャン公+テュレンヌ元帥 VS メルシー」リターンズ。ヨハン・フォン・ヴェルトを加えたバイエルンが戦いを有利に進めたが、メルシーの戦死と日暮により皇帝軍が退却した。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年8月3日 フランツ・フォン・メルシー/ネルトリンゲンの戦い(1645)で戦死。フライブルク、メルゲントハイム、ネルトリンゲンと、何度もフランスのアンギャン公&テュレンヌのコンビと戦った。彼の戦死した場所には、後に敵であるアンギャン公が記念碑を建立している。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1628年8月4日 シュトラールズント攻囲戦/皇帝軍による攻囲に対し、助力を求めたシュトラールズントをスウェーデン軍が支援し、攻囲軍を退却させた。スウェーデンといっても主にスコットランド将校が活躍した攻囲戦で、ヴァレンシュタインの初の失敗でもある。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1646年8月4日 コルノイブルク攻囲戦/皇帝軍のフォン・プッフハイム元帥が、スウェーデン軍が守る要衝コルノイブルクを3ヶ月間の攻囲の末陥落させた。ウィーンにほど近くドナウ川も利用できるこの要衝から敵勢力を追い払ったことによって、ウィーンは危機から逃れた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1619年8月5日 ドルニー・ヴィエストニツェの戦い/南モラヴィアの街を皇帝軍の元帥ダンピエール伯ハインリヒが包囲した戦い。街の抵抗は激しく、皇帝軍にに3000名もの損害を与え撃退に成功したが、ダンピエール伯は意趣返しとして退却時に街に火をかけた。
  • 【三十年戦争†訃報】1630年8月5日 グアスタッラ公フェランテ2世/ゴンザーガ家断絶により勃発したマントヴァ継承戦争で、第1候補であるヌヴェール公に対し、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が対立候補として立てた遠縁の軍人。戦争中に亡くなったため、ヌヴェール公の継承が既成事実化した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1636年8月5日 ブレイ・シュル・ソンムの戦い/フランス・スペイン戦争において、皇帝の命でロレーヌ軍を率いたカリニャーノ公がソンム川を渡りフランスに侵入する。対するソワソン伯は成す術なく敗れた。この後カリニャーノ公はコルビーを攻囲し国王はパリ防衛を命じた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1644年8月5日 フライブルクの戦い②/アンギャン公+テュレンヌ元帥 VS メルシーというマニア垂涎の3日に渡る戦い。第2日、シュリアーベルクの戦い。士気の低下を危惧するテュレンヌに反し、血気に逸るアンギャン公は追撃を強行し、逆に多くの損失を出して撃退される。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1623年8月6日 ウルバヌス8世が教皇選出/前任のグレゴリウス15世が政治を好まず、ヨーロッパの外交にほとんど関心を払わなかったのに反し、ウルバヌス8世は教会改革に精力的に取り組んだ傍ら、軍事や政治にも携わり、反ハプスブルクの立場をとった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1623年8月6日 シュタットローンの戦い/前年のフリュールスの戦いのリベンジで軍を再編成したブラウンシュヴァイク公クリスティアンを、ティリー伯が2日に渡って追撃。両軍激突の直後、騎兵のパニックに歩兵も続きクリスティアン軍は崩壊、全滅に近い損害を出した。
  • 【三十年戦争†訃報】1628年8月6日 元バンベルク市長ヨハネス・ユニウス/「バンベルク魔女裁判」の犠牲者のひとりで、嘘の自白をした旨を書いた手紙が現存する。三十年戦争中のドイツでは戦争と並行して魔女裁判も盛んであり、中でもバンベルクは5年に渡った最長・最大の裁判とされる。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年8月7日 第19代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアー/フランシス・ヴィアー、ホレス・ヴィアー兄弟以降、オランダにおける英国義勇軍として戦うヴィアー家の一員。第18代・第19代と続けてオランダで戦死し、第20代でオックスフォード伯は断絶する。
  • 【三十年戦争†訃報】1636年8月8日 リッペ伯ジモン・ルートヴィヒ/ドイツの小領地の伯。三十年戦争の惨禍を避けるために父ジモン6世は慎重に中立を保っていたが、ジモン・ルートヴィヒはスウェーデン軍に接近。その領地は新教軍の駐屯地となり、皇帝軍の侵入もあって荒れるがままにされた。
  • 【三十年戦争†訃報】1635年8月9日 プファルツ・ツヴァイブリュッケン伯ヨハン2世/プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の後見人で、フリードリヒ5世がボヘミア王になって以降はプファルツの代官。その経緯から収入や権利を奪われ、ハイルブロン同盟に入ったものの、その翌年亡命中に死亡した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1638年8月9日 ヴィッテンヴェイアーの戦い/フランス軍のザクセン・ワイマール公ベルンハルトと、皇帝軍元帥サヴェリ公とゲッツ伯による戦い。ベルンハルト側の策略にはまったこと、サヴェリ公が負傷したことで皇帝軍は退却した。5時間に渡る戦闘で村は壊滅した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1640年8月9日 アラス攻囲戦/フランス・スペイン戦争のうち、仏・蘭が共同戦線を張った南ネーデルランド戦線の数少ないフランス側の勝利のひとつ。シャティヨン元帥が辛くもフェルナンド枢機卿王子を撃退した。この攻囲の後、カリニャーノ公がフランスに転向した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1644年8月9日 フライブルクの戦い③/アンギャン公+テュレンヌ元帥 VS メルシーというマニア垂涎の3日に渡る戦い。第3日、ザンクト・ペーターの戦い。補給路をめぐって両軍が再度対峙。バイエルンが一時優勢となったが、互いの兵が追撃を拒み、勝敗つかずとなった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1619年8月10日 アングレーム条約/フランス国王ルイ13世とその母后マリー・ド・メディシス間で結ばれた条約。それぞれの支持者間での内戦を終了することとした。この条約を仲介したのが当時司教だったリシュリューであり、これが彼の出世の足掛かりとなった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1628年8月10日 戦列艦ヴァーサ沈没/スウェーデン国王グスタフ2世アドルフの命で建造された、ぼくのかんがえたさいきょうのふね。処女航海で沈没した。1961年に良好な状態で引き上げられ、現在はスウェーデンでも最も人気のある博物館。 ヴァーサ号博物館 http://letsgo-sweden.com/vasa-museum/
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1633年8月11日 プファッフェンホーフェンの戦い/7月のオルデンドルフの戦いに次ぎ、この戦いに勝利したことで、前年のリュッツェンで国王を失ったスウェーデン軍はその損失を補填し巻き返しを図ったかにみえた。しかし翌年のネルトリンゲンの大敗で窮地に陥ってしまう。
  • 【三十年戦争†訃報】1633年8月12日 デンマーク王子ウルリク/デンマーク国王クリスチャン4世の四男。聖職者としてのスタートしたが、オランダのスヘルトヘンボス攻囲戦で学んだことがきっかけで、ザクセン選帝侯の軍に加わりシレジア方面で戦った。ヴァレンシュタインとの和平交渉中に被弾して死亡。
  • 【三十年戦争†訃報】1638年8月12日 ヨハネス・アルトゥジウス/ドイツの政治学者、法学者。主著『政治学』(1603)では、カルヴァン派主義に基づいた社会契約・人民主権などを主張した。ボーダンとは対立し、グロティウスからも批判を得ている。翌年よりその死までエムデン市の法律顧問を務めた。
  • 【三十年戦争†訃報】1638年8月12日 バルタサル・デ・マラダス元帥/ルドルフ2世時代から皇帝に仕え、早い段階で元帥となるものの軍事的な才能には乏しく、政治的に暗躍した。皇帝の意を汲むのに長け、ヴァレンシュタインの罷免や暗殺にもかかわっているといわれる。ボヘミア総督。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1624年8月13日 フランス国王ルイ13世がリシュリュー枢機卿を宰相に任命/パトロンの失脚により不遇を経験したが、国王ルイ13世と母后マリー・ド・メディシスの和解(アングレーム条約)をお膳立てしたことが評価され、以降、政敵を排除し宰相の地位を得た。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1645年8月13日 第二次ブレムセブルー条約/トルステンソン戦争の終結のため、2月からフランスの調停を受け、スウェーデン、デンマーク両国に締結された講和条約。とくにエーレスンド海峡の通行権をスウェーデンが得たことは大きく、「バルト帝国」の実現とされた。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年8月14日 プファルツ・ズルツバッハ公アウグスト/兄はユーリヒ・クレーフェ継承戦争の当事者、プファルツ・ノイブルク公ヴォルフガング・ヴィルヘルム。カトリックに改宗した兄と袂を分かってスウェーデンと同盟し、ザクセン選帝侯を新教派に取り込むことに成功した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年8月15日 ケルン選帝侯がフランスとの同盟を申し出/ケルン選帝侯フェルディナントは、スウェーデンの勢力を削ぐためフランスと中立の立場の勢力を立ち上げようと画策。しかし武力行使を志向していたリシュリュー枢機卿は、選帝侯に交渉権がないとして却下した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1636年8月15日 コルビー攻囲戦/スペイン軍のカリニャーノ公と皇帝軍のヨハン・フォン・ヴェルトが3万の軍でコルビーを包囲。守備隊のベルフォリエール隊長は街を略奪から守るため、6日の攻囲後降伏条件をのんだが、本国ではその行為が非難され反逆罪で告発された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1636年8月15日 ドル攻囲戦/三十年戦争間のフランシュ・コンテで行われた戦闘としては最大規模のもの。コンデ公アンリ2世率いるフランス軍は、ハプスブルク家所有のフランシュ・コンテに侵入。85歳になるブザンソン大司教(この5日後に死亡)を中心に仏軍を撃退した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1632年8月16日 ヴィースロッホの戦い/エルネスト・モンテクッコリ率いる皇帝軍は、グスタフ・ホルン率いるスウェーデン軍の戦力を見誤って戦いを仕掛け撃退された。この後スウェーデンは近隣の街の破壊や占領を続け、シュトラスブルク攻略への足場とした。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年8月16日 ドナウヴェルト占領/ドナウヴェルトはハイルブロン同盟(ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトとグスタフ・ホルン両司令官)軍の補給基地兼合流ポイントとして使用されていたが、ネルトリンゲンの戦いに向かう途中のフェルディナント大公に奪取された。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1632年8月17日 パッペンハイム伯の襲撃/オランダによるマーストリヒト攻囲戦の最中、スペイン軍の援軍要請に応じたパッペンハイム伯が、オランダ側の防衛線に対し一斉攻撃を仕掛けた戦い。オランダ側は主だった将校総動員でこれを撃退、5日後の開城につなげた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1627年8月18日 ディルシャウの戦い/ポーランド・スウェーデン戦争において、敗退を続けていたスウェーデン軍が大勝した戦い。それまでも何度も大怪我をしていた国王グスタフ2世アドルフがこの時鎧の着れない体になったことが、バフ・コートの普及の一因でもある。
  • 【三十年戦争†訃報】1625年8月19日 オストフリースラント伯エノ3世/オランダの影響で栄えた独立港湾都市エムデンを領地内に持ち、その利権を得ようと街を攻囲して失敗。以降、東フリースラントはオランダの冬営地の地位に甘んじ、1622年にはマンスフェルト伯の軍によりダメージを受けた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1627年8月19日 フロール攻囲戦/オランイェ公フレデリク・ヘンドリクが初めて単独で成功させた大規模攻囲戦。スピノラ侯がブレダで用いた環状防衛線を発展させ、敵の援軍を防いだ。この攻囲戦後すぐにオランダは、フランスに三十年戦争への共同介入を持ち掛けている。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1629年8月19日 ヴェーゼル占領/オランダ軍が奇襲でライン川沿いの「スペイン街道」要地ヴェーゼルを占領。当時、皇帝軍の援軍エルネスト・モンテクッコリ伯がオランダの心臓部まで迫っていたものの、補給路と補給物資両方を断たれたため撤退を余儀なくされた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年8月20日 トリアー占領/フランス軍によるトリアー占領。三十年戦争期、地理的な事由からトリアーは何度か外国軍の占領を受けている。フランス軍に2回(1632、1645)、スペイン軍に1回(1634)。そのためかトリアー選帝侯の居城は領内のコブレンツに置かれた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1648年8月20日 ランスの戦い/フランスの内乱に乗じてランス奪回をもくろむスペイン軍のオーストリア大公レオポルトを、フランス軍のコンデ公が撃破した戦い。ウェストファリアの和平交渉の決定的な要因となった半面、国内のフロンドの乱を長引かせる原因にもなった。
  • 【三十年戦争†訃報】1640年8月22日 ナッサウ・ザールブリュッケン伯ヴィルヘルム・ルートヴィヒ/2人の弟とともにスウェーデン、ハイルブロン同盟、フランスと同盟して皇帝に対抗したため、1635年に3人まとめて帝国アハト刑を宣告された。ヴィルヘルム・ルートヴィヒは亡命中失意のうちに没した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1642年8月22日 マーストリヒト攻囲戦/「マース川遠征」の集大成として、オランダがスペイン領マーストリヒトを開城させる。オランダはマース川を押さえたことによって、ライン川からアントウェルペンを結ぶスペインの大掛かりな水運拡張計画を完全に頓挫させた。
  • 【三十年戦争†訃報】1628年8月23日 バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ/英国王ジェームス1世・チャールズ1世両国王の寵臣。いわゆる成り上がりで、当初は人気があったものの、既得権を守る立場になるとその軍事的失敗や宗教政策に批判が高まった。反対派によって暗殺。『三銃士』で有名。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1643年8月23日 ブルノ攻囲戦/スウェーデン軍のレンナート・トルステンソンがモラヴィアのブルノを攻囲。5/4から4か月ほど続けられた攻囲戦は、ラーコーツィ・ジェルジ1世の援軍が到着したために解除された。トルステンソンはこの後すぐデンマークへ向かうことになる。
  • 【三十年戦争†訃報】1635年8月24日 フュルステンベルク・ハイリゲンベルク伯エルンスト8世エーゴン/三男として生まれたため、僧籍に入りカトリックの要職を歴任した。1619年に皇帝の特許状を手に入れると還俗して軍人となりカトリック連盟に加わり、バイエルン軍の将軍として活躍した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1646年8月24日 マルデイク砦攻囲戦/フランス・スペイン戦争において、ダンケルク攻略に先んじて行われた攻囲戦。同盟国オランダはアントウェルペン奪還を目論んでトロンプ提督の海軍を差し向けて協力したが、フランスの意向でダンケルクが優先された。
  • 【三十年戦争†訃報】1648年8月24日 ディエゴ・デ・サアベドラ・ファハルド/スペインの外交官でサンティアゴ騎士。フェリペ3世・フェリペ4世のもとで外交職を歴任、また、カトリック君主の理念を説いた『キリスト教君主の理念』を著した。ミュンスター和約のスペイン全権大使も務めた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1620年8月25日 トランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルをハンガリー王に選出/ベステルツェバーニャで開かれた議会上で、ベトレン・ガーボルが等族によってハンガリー王に選出される。ベトレンは当初は拒絶したが、この後も王を称して二度ハンガリーに侵攻した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1637年8月25日 フェンロー攻囲戦(1637)/1632年の「マース川沿いの遠征」でオランダに占領されたフェンローを、スペイン王弟フェルナンド枢機卿王子が奪還した攻囲戦。同時に攻囲されていたブレダからオランイェ公をおびき出す意図もあったが、そちらは叶わなかった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1619年8月26日 フリードリヒ5世、ボヘミア王選出/ボヘミアのプロテスタント等族はフェルディナント2世を認めず、独自にプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を王に選出。しかしサヴォイア公は離反し、英蘭の支援も得られない等、ことごとく当てが外れてしまう。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1618年8月26日 ブランデンブルク・プロイセン成立/プロイセン公兼ドイツ騎士団総長アルプレヒト・フォン・ブランデンブルクの孫娘との婚姻により、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントはプロイセン公を獲得。翌年、長男のゲオルク・フリードリヒが継承した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1626年8月27日 ルッターの戦い/デンマーク国王クリスチャン4世が、帝国諸侯としての名目で三十年層に介入し、皇帝軍のティリー伯に撃退された戦い。この敗北でドイツの新教勢力からの援助が得られなくなり、デンマークはスウェーデンとの同盟の模索を余儀なくされる。
  • 【三十年戦争†訃報】1626年8月27日 ハンス・フィリップ・フォン・フックス・フォン・ビンバッハ/ブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯に仕えていたが、「あまりに凶暴な性格」のため解雇、軍人となった。当初皇帝軍側、その後新教側に鞍替えした。ルッターの戦いで戦死。眼帯がトレードマーク。
  • 【三十年戦争†訃報】1626年8月27日 ヘッセン・カッセル方伯フィリップ/ヴィルヘルム5世の異母弟。オランダで軍事を学んだ後、デンマーク軍で三十年戦争に参加する。ルッターの戦いで捕虜となったが、皇帝軍の将校たちが身代金で揉めて殺害してしまった。後ティリー伯の手で遺体は丁重に返却された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1619年8月28日 フェルディナント2世、神聖ローマ皇帝戴冠/先にボヘミア王位を先帝マティアスから譲られ、宗教弾圧を始めていたフェルディナント2世が、さらに皇帝として即位し勢力を強めた。それに先んじてボヘミアでは彼を王から廃しフリードリヒ5世を指名した。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年8月28日 フーゴー・グロティウス/オランダの法学者。アルミニウス論争の際に終身刑となるが3年後に脱獄、パリで著作活動を続けた。1634年からはスウェーデンに雇用され、パリ在住スウェーデン大使となる。スウェーデンに向かう途上に船が難破し漂着先で死亡した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1622年8月29日 フルーリュスの戦い/フリードリヒ5世との契約を打ち切られたブラウンシュヴァイク公クリスティアンがオランダ戦線に向かう途中、スペインのコルドバ将軍の追撃を受け、壊滅状態に陥った。この戦いの5度の騎兵突撃でクリスティアンは左手を失う。
  • 【三十年戦争†訃報】1622年8月29日 ザクセン・ヴァイマール公フリードリヒ/1617年の母の葬儀の際結成された貴族文芸サークル「実りを結ぶ会」の創立メンバーでNo.4。従弟のザクセン・アルテンブルク公フリードリヒとともにザクセンのフリードリヒと呼ばれた。フルーリュスの戦いで戦死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年8月29日 ラインフェルデン攻囲戦(1634)/前年、スペイン軍のフェリア公に奪われたラインフェルデンを、21週間の攻囲の末ザクセン・ヴァイマール公が奪還。皇帝軍のメルシーは補給不足から開城を強いられた。その後街は9/14までスウェーデン軍の略奪に晒された。
  • 【三十年戦争†訃報】1631年8月30日 マイエンヌ公シャルル/ゴンザーガ家の直系が絶えたことを契機に、マントヴァとモンフェラートの継承権をめぐって、父ヌヴェール公シャルルがマントヴァ継承戦争を開始。マイエンヌ公はゴンザーガ家と縁組して継承権の強化を図るが継承戦争中に死亡した。
  • 【三十年戦争†訃報】1648年8月30日 ド・ベック男爵ジャン/平民として生まれ、将軍まで登り詰め貴族に叙せられた。ボヘミアの反乱直後に皇帝軍でキャリアを開始。プラハ条約を機に故郷のルクセンブルクに戻り、総督および守備隊長となった。ランスの戦いで負傷し治療を怠ったために死亡。

9月

  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1632年9月1日 カステルノーダリの戦い/王弟ガストンの陰謀に加担したモンモランシー公アンリ2世に対し、リシュリュー枢機卿はショーンベール元帥を差し向けた。モンモランシー公は司令官キャンプに無謀な突撃を仕掛けて失敗、逮捕後、王弟にも見捨てられ処刑された。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1628年9月2日 ヴォルガストの戦い/ヴァレンシュタインのシュトラールズント撤退を受け、ウーゼドム島に上陸して戦いを挑んだデンマーク国王クリスチャン4世は、逆に一掃され帰国を余儀なくされた。翌年皇帝と和約を締結し、デンマークは戦争から完全撤退した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1632年9月2日 アルテ・ヴェステの戦い/ティリー伯の戦死を受け、皇帝の要請で復帰したヴァレンシュタイン元帥と、スウェーデン国王グスタフ2世アドルフとの戦い。グスタフは山頂の要塞のヴァレンシュタインに戦いを挑むも、無為に損失を出すばかりで撃退された。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1625年9月3日 ニーンブルクの戦い/2年前から街はブラウンシュヴァイク・カレンベルク公ゲオルクの軍が駐屯していたが、1625年にバイエルン軍のティリー伯に包囲された。その際、街のゲリラたちは夜間に敵軍の装備や軍旗を繰り返し盗み、最終的に撤退に追い込んだ。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年9月3日 サンマリノ共和国成立/イタリアのサンマリノが、教皇ウルバヌス8世の承認を得て独立。世界最古の共和政体の国家となった。中世以来、天然の要塞を利用して外敵の侵入を防ぎ、建国から現在まで独立を守り続けている。https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sanmarino_r/index.html
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1632年9月3日 フュルトの戦い/アルテ・ヴェステの戦いで退却したスウェーデン国王グスタフ2世アドルフは、ヴァレンシュタイン元帥を誘い出すことに成功し、再度戦いを挑む。が、ヴァレンシュタインの守勢一方の戦術に決定的な勝利を見いだせず撤退することになった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1637年9月3日 ルールモント攻囲戦/1632年の「マース川沿いの遠征」でオランダに占領されたルールモントを、スペイン王弟フェルナンド枢機卿王子が奪還した攻囲戦。同時に攻囲されていたブレダからオランイェ公をおびき出す意図もあったが、そちらは叶わなかった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1639年9月3日 ミラノ講和/三十年戦争と並行して起こっていたグラウビュンデン紛争の講和条約。指導者ユルク・イェナチュの暗殺で一気に講和が進んだ。カトリックの自由礼拝容認を条件に、スペインはグラウビュンデン自由国にヴァルテリーナを返還した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1643年9月3日 カルタヘナの戦い/収穫人戦争中の海戦。マイエ・ブレゼ侯率いるフランス海軍はスペイン海軍に勝利をおさめ、カルタヘナ港を1年間閉鎖した。スペイン・イタリア間の貿易は一時滞ったが、リシュリュー枢機卿の死後フランス海軍は急速に衰退する。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1630年9月4日 シュテッティン条約/スウェーデン王国とポンメルン公国間の条約。公国の政治と宗教は公国が司るが、軍事と外交はスウェーデンに移譲されることになった。ポンメルン公に跡継ぎがなかったため、将来的にはポンメルンの分割割譲を招くことになる。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年9月4日 ニュルンベルク攻囲戦/グスタフ2世アドルフの進撃を阻むため、皇帝軍のヴァレンシュタインはニュルンベルクに籠ったスウェーデン軍を攻囲するが、双方が補給や飢餓・疫病に苦しんだ。アルテ・ヴェステの戦いで敗れたグスタフは退却を決意した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年9月4日 ハイデルベルク・シュパイアー再奪還/同年3月21日にフランス軍のブレゼ侯ユルバン・ド・マイエとド・コーモン元帥によって占領された両都市を、バイエルン軍のヨハン・フォン・ヴェルトが再奪還。ハイデルベルクは終戦後プファルツ選帝侯に返還された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1619年9月5日 コシツェ占領/トランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルとラーコーツィ・ジェルジ1世が王領ハンガリーに侵入し、コシツェを占領。その後ベトレンは上ハンガリーを制圧し、プロテスタント等族から「プロテスタントの擁護者」として歓迎された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年9月5日 ユーリヒ攻囲戦/オランダ・スペイン間の十二年休戦条約が失効し、プファルツ遠征の途上にあったスピノラ侯はフランドル戦線に復帰することにする。先に部下のファン・デン・ベルフ伯に攻囲をはじめさせたユーリヒに後から合流、5か月後に開城させた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1647年9月5日 トジェベルの戦い/20日間近くにわたって断続的に戦闘が散発した戦い。西ボヘミアを守ろうと皇帝はモンテクッコリ、ヴェルト、メランダーに命じてスウェーデン軍を攻撃させる。トジェベルに陣を構えた皇帝軍にウランゲル元帥は無為に攻撃を仕掛け敗れた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1630年9月6日 ヴァレンシュタイン解任/レーゲンスブルク帝国会議上での選帝侯たちの要請を受け、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、息子のローマ王選出と引き換えにヴァレンシュタインの罷免とその軍隊の解散を決定。メミンゲン市の駐屯地で告知した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1634年9月6日 ネルトリンゲンの戦い(1634)/ハイルブロン同盟のバネールとベルンハルト、皇帝軍のフェルディナント(後の3世皇帝)とフェルナンド枢機卿が戦った、三十年戦争でも1-2を争う有名な戦い。ここでの皇帝軍の勝利が、翌年のフランス参戦を誘うこととなった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1645年9月6日 ケッチェンブローダの停戦/ドレスデン近くのケッチェンブローダで調印された、スウェーデンとザクセン選帝侯の停戦協定。ザクセンは皇帝側に留まって良いとされたが、スウェーデンに対して軍事行動をしないことと軍隊の通過を許可することを約した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1631年9月7日 ヴロツワフの戦い/バルタザル・デ・マラダス元帥はヴロツワフ近郊で、スウェーデン軍に転向したハンス・ゲオルク・フォン・アルニムと戦い敗退。ヴロツワフは翌年、スウェーデン・ザクセン連合軍に占拠されたが、同時に人口が半減する伝染病にも襲われた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1638年9月7日 オンダリビア攻囲戦/フランスのアンギャン公とスルディ大司教が2ヶ月にわたり攻囲していたオンダリビアを、スペイン軍のカスティーリャ提督メディナ・デ・リオセコ公カブレラが救援。しかし街の人口は女性や子供300名ほどまでに減っていた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1640年9月7日 セレ協定/カタルーニャ反乱(収獲人戦争)の開始を受け、フランスがカタルーニャ反政府勢力との間に調印した条約。カタルーニャはフランスから軍事援助を受け、スペイン王国から分離し、フランス王の保護のもとに自由共和国を構成することが約された。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年9月8日 フランシスコ・デ・ケベード/スペイン文学者。サンティアゴ騎士でもあり、貴族に交友関係が広く外交活動もおこなっている。半面、強烈な風刺のせいで、逮捕や発禁処分も経験している。小説・映画『アラトリステ』でも主人公の友人という設定で登場。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1620年9月9日 バート・クロイツナハ攻囲戦/皇帝の許可を得て三十年戦争に介入したスペイン軍の「プファルツ遠征」最初の攻囲戦。アンブロジオ・スピノラ将軍配下のカルロス・コロマ将軍はバート・クロイツナハを攻囲、ごく短時間で反撃を抑え街を占領した。
  • 【三十年戦争†訃報】1633年9月9日 ハインリヒ・ホルク/デンマーク生まれの軍人で、デンマーク戦争時は国王クリスチャン4世の元で戦うが、途中傭兵としてヴァレンシュタイン軍に鞍替えしヴォルガストの戦いではデンマーク軍に敵対した。その軍隊は規律の悪さから恐れられた。ペストで急死する。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1642年9月9日 ペルピニャン攻囲戦/カタルーニャ反乱の攻囲戦。1641年11月から10ヶ月にわたってフランス軍に包囲されたが、開始から半年近く、国王ルイ13世自身も攻囲戦に参加していた。近郊のコリウールが陥落し、補給が断たれスペイン軍は最終的に降伏する。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1620年9月10日 アルスハイムの戦い/「プファルツ遠征」においてまずはバート・クロイツナハを易々と攻略したスペイン軍はアルスハイムを標的にするが、オーベントラウト大隊長がリーニュ公を破り撃退した。しかし大勢に影響はなく、4日後オッペンハイムが陥落した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1627年9月10日 ラ・ロシェル攻囲戦/フランスのユグノーが立て籠もるラ・ロシェルの攻囲が開始される。フランス国王軍は、ユグノーと信仰を同じくするオランダ、また、オランダと交戦中であるがカトリックのスペインの両方からの援助を得て攻囲を優位に進めた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1620年9月11日 ティラーノの戦い/三州同盟・ベルン・チューリヒがスペイン軍と激突、いったんはスペインを退却させたが決め手を欠き、反撃を許した。ヴァルテリーナ渓谷は三十年戦争中何度も戦いの場になったが、この後スイスからの直接介入は行われなかった。
  • 【三十年戦争†訃報】1629年9月11日 アダム・フォン・ハーバーストルフ/オーストリアの将軍で皇帝とバイエルン公に仕えた。上オーストリアで新教弾圧を行い、サイコロで2人に1人を死刑にする非道によって、オーバーエスタライヒ農民戦争の誘因ともなる。義理の息子は皇帝軍のパッペンハイム伯。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年9月11日 エステルハージ伯ニコラウス/プロテスタントの多いハンガリーにおいて、カトリックに改宗したことで皇帝から重用された。地元の反乱軍の指導者ベトレン・ガーボルとも何度も戦っている。のちハンガリー副王や金羊毛騎士にもなった。結婚でも莫大な富を得た。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年9月12日 オスナブリュック占領/スウェーデン軍のクニプハウゼン将軍によってオスナブリュックが占領される。街では前年の1632年にイエズス会の大学が設立されていたが、この占領によって1年で閉校した。この後は比較的被害が少なく、和平交渉の舞台となった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年9月12日 ストゥムスドルフの和約/6年間の休戦を約したアルトマルク休戦協定の失効に伴い、その内容を修正して結ばれたスウェーデン・ポーランド戦争の停戦条約。国王を失ったスウェーデンは撤兵や関税の撤廃に応じるなど譲歩したが、敵対行為は完全に終結した。
  • 【三十年戦争†訃報】1642年9月12日 サン・マール侯爵アンリ・コワフィエ・ド・リュゼ/父が懇意にしていたリシュリュー枢機卿の斡旋でルイ13世の寵臣になったものの、そのリシュリューに対し、ソワソン伯、次いで王弟ガストン等と次々陰謀を企む。その後裁判で有罪とされ、処刑された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1620年9月13日 バウツェン攻囲戦/ザクセン選帝侯ヨハン1世ゲオルクがルサティアへ侵入、バウツェンの街を包囲した。街は教会の屋根を取り払って砲撃陣地を設けたが、それが災いして教会は完全に破壊されてしまった。その後1639年、街はスウェーデン軍に占領された。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年9月13日 オーストリア大公レオポルト5世/皇帝フェルディナント2世の弟。若年期は聖職者の道を歩み、パッサウやシュトラスブールの司教となった。ユーリヒ・クレーフェ継承戦争でユーリヒを攻囲する。1626年に還俗した。スウェーデン軍からチロルを防衛したその年に死亡。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1640年9月13日 レーゲンスブルク帝国会議(1640)/皇帝フェルディナント3世は、プラハ条約は新教に対しより寛容になるべきと説いた。また、ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムの名代として、長男フリードリヒ・ヴィルヘルムが初登場した会議でもある。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1620年9月14日 オッペンハイム占領/皇帝の許可を得て三十年戦争に介入したスペイン軍の「プファルツ遠征」、総司令官のスピノラ侯が指揮した最初の攻囲戦。ブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯の守るオッペンハイムを、スピノラ侯が明け方の奇襲によって占領した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1629年9月14日 スヘルトヘンボス攻囲戦/前年提督へインにもたらされた大量のスペインの財宝を元手に行われた大規模攻囲戦。土木工事の粋を集めたこの攻囲戦には多くの見学者が訪れた。しかし同時に、アメルスフォールト一時陥落という危機に陥った戦いでもある。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年9月14日 プライセンブルク要塞占領/バイエルン軍のティリー伯が、ライプツィヒに隣接する要衝プライセンブルク要塞を占領。この要塞はシュマルカルデン戦争時にザクセン選帝侯によって再建・強化されていたが、この占領の後徐々にその軍事的重要性を失った。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1644年9月15日 インノケンティウス十世がローマ教皇に選出/三十年戦争末期に選出された教皇。ウェストファリア条約に抗議する回勅を発している。この絵で有名。 【作品解説】フランシス・ベーコン「ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作」 https://www.artpedia.jp/study-after-vel%C3%A1zquez%27s-portrait-of-pope-innocent-x/
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年9月16日 リガ征服/スウェーデン・ポーランド戦争(1621-1625)において、リガはスウェーデン国王グスタフ2世アドルフの支配下に入る。ポーランドの反宗教改革への反感から、スウェーデン支配は歓迎され、ストックホルムに次ぐ第2の都市として栄えた。
  • 【三十年戦争†訃報】1626年9月17日 ヨハン・シュヴァイクハルト・フォン・クロンベルク/三十年戦争期に3人を数えたマインツ選帝侯の1人。親ハプスブルク派で、皇帝ルドルフ2世の後援で選帝侯となった。過去の選帝侯の進めた対宗教改革を完成させた。1619年の皇帝選挙でフェルディナントを推した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1631年9月17日 ブライテンフェルトの戦い(1632)/国王グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン・ザクセン連合軍が、ティリー伯率いる皇帝軍に会戦で圧勝した戦い。新教側初の決定的勝利だったと同時に、軍制改革による火力と機動力の勝利だったとして評価されている。
  • 【三十年戦争†訃報】1630年9月18日 メルヒオール・クレスル枢機卿/ウィーン司教を経て枢機卿になった聖職者。反宗教改革を推進したが、新教に譲歩する姿勢を見せたことで皇帝の不興を買い、10年間近く投獄された。1628年に恩赦でウィーン帰還を果たしたが、その後は政治には関わらなかった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年9月18日 フェルディナント2世によるフランスへの宣戦布告/5月にスペインに対して宣戦布告したフランスがいよいよライン川方面に進路を向けたことを受け、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は正式に宣戦布告。戦いはスウェーデン=フランス戦争の局面に入る。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1641年9月18日 ドルステン攻囲戦/皇帝軍のハッツフェルト元帥が7月16日からヘッセンのドルステンを攻囲、ヴォルフェンビュッテル攻囲戦との二方面作戦になったヘッセンでは、救援が間に合わずライン右岸の要地を失った。ドルステンは砲撃により壊滅的被害を受けた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1622年9月19日 ハイデルベルク攻囲戦/皇帝軍のティリー伯・スペイン軍のコルドバ将軍の連合軍が、イングランド軍の守る街を2ヶ月の攻囲の末攻略。ハイデルベルクはプファルツ選帝侯国の首都であると同時に新教勢力の首都でもあり、その陥落の持つ意味は大きかった。
  • 【三十年戦争†訃報】1639年9月20日 ヨハネス・ムルシウス/オランダの学者。レイデン大学で教鞭をとっていたが、ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトの子息たちの教師をしていたことでアルミニウス派と誤解され解雇、のちデンマークに渡りソーレ大学教授として国王クリスチャン4世にも仕えた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1640年9月20日 トリノ攻囲戦/ピエモンテ内戦で最も決定的な戦い。めずらしい三重攻囲戦でもある。トリノに立て籠もるフランス軍を、スペイン側のカリニャーノ公が包囲し、それをフランスのアルクール伯が、さらにその外側をスペインのレガネス侯が攻囲した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1625年9月21日 ヴェルチェーイアの戦い/1623年、三同盟はフランス・サヴォイア・ヴェネツィアと同盟し、ヴァルテリーナからのスペイン勢の駆逐を目論む(グラウビュンデン紛争)。スペインを援護した皇帝軍のパッペンハイム伯はこの戦いでフランスとベネチアを破った。
  • 【三十年戦争†訃報】1637年9月21日 ヘッセン方伯ヴィルヘルム5世/スウェーデンやフランスと同盟し、対皇帝の姿勢は揺らぐことなく、『プラハ条約』に最後まで署名しなかった3人の帝国諸侯のうちの1人でもある。亡命先で客死した。妃のアマーリエ・エリーザベトは「鉄姫」と呼ばれた鬼嫁。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1634年9月21日 カルフの戦い/スウェーデンと同盟したヴュルテンベルクがネルトリンゲンの戦いに敗れた後、スウェーデン軍のザルム・キルブルク・メルヒンゲン伯をバイエルン軍のヨハン・フォン・ヴェルトが敗走させる。その後カルフはヴェルトによって破壊された。
  • 【三十年戦争†訃報】1637年9月22日 カルロ1世・ゴンザーガ・ネヴェルス(ヌヴェール公シャルル1世)/ゴンザーガ家の直系が絶えたことを契機に、マントヴァとモンフェラートの継承権をめぐってマントヴァ継承戦争を開始。戦争中に長男シャルルが死亡し、マントヴァ公は孫のシャルルが継いだ。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1627年9月23日 ハイリゲンハーフェンの戦い/エルベ川で合流したバイエルンのティリー伯と皇帝軍のヴァレンシュタインは、デンマーク軍のバーデン・デュルラハ辺境伯に壊滅的な被害を与えた。この敗戦を受けデンマーク国王クリスチャン4世は自国に逃れるほかなかった。
  • 【三十年戦争†訃報】1638年9月24日 バーデン・デュルラハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒ/プロテスタント同盟設立の一員。領地に影響がないよう家督を譲った後、一介の傭兵隊長として最後まで同盟の盟主フリードリヒ5世を支援し続けた。ヴァレンシュタインに敗北した後は完全に引退した。
  • 【三十年戦争†訃報】1630年9月25日 ロス・バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ/フランドル方面軍総司令官。プファルツ遠征やブレダ攻囲戦で活躍したが、雇い主のスペインからは支払も名誉も得られないまま、マントヴァ継承戦争中に病死。死後ベラスケスによって『ブレダの開城』に描かれた。
  • 【三十年戦争†訃報】1640年9月25日 アーレンベルフ伯フィリップス・カーレル/南ネーデルランド執政イザベラに仕えた金羊毛騎士。1632年、スペイン側の複数貴族の離反でオランダが「マース川沿いの遠征」を成功させた際、オランダと和平を模索したことで謀反の疑いをかけられ、本国で軟禁された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1629年9月26日 アルトマルク休戦協定/互いに決定力を欠き泥沼化の様相を見せてきたスウェーデン・ポーランド戦争で、フランスが調停に入り結ばれた協定。新教側の劣勢を覆すべく、スウェーデンを三十年戦争に介入させたいというフランスの意図があった。
  • 【三十年戦争†訃報】1623年9月27日 ナッサウ・ジーゲン伯ヨハン7世/軍制改革の立役者のひとりだが、オランダ型軍制改革が英・仏両国に主に受け入れられたのに比べ、ヨハン7世の領地防衛に特化した理論は信教を問わずドイツ諸侯に普及した。士官学校も経営したがその死とともに閉校している。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1634年9月28日 ヴィルシュタットの戦い/3週前にネルトリンゲンの戦いで敗北したハイルブロン同盟軍に追い打ちをかけるように、ロレーヌ公シャルル4世率いる皇帝軍が、シュトラスブール近郊で相手を撃破。相次ぐ敗戦は、ザクセン選帝侯が皇帝に歩み寄る一因となった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1637年9月28日 ルカートの戦い/ルシヨンの強化策としてルカートを包囲したスペイン軍に対し、ラングドックの兵を率いたダルワン公シャルルと援軍のアルクール伯アンリが撃退に成功した。ダルワン公はこの功績で元帥となり、父と同じ「ショーンベール元帥」を名乗った。
  • 【三十年戦争†訃報】1639年9月28日 ラ・ヴァレット枢機卿ルイ・ド・ノガレ/トゥールーズ大司教を経て枢機卿になるが、1630年代には軍司令官として活躍。ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルト麾下でアルザスやマインツを転戦した。リシュリュー枢機卿からは「使用人 valet」と呼ばれていたとか。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1640年9月29日 イル・シュル・テ攻囲戦/フランスとカタルーニャの接近を危惧したルシヨン総督は、彼らの連絡の遮断させるためイル・シュル・テを包囲する。9/24にスコットランド人のジョージ・ステュアートに撃退され、その後フランスの援軍が到着したため撤退した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1642年9月29日 セダン併合/セダン公兼ブイヨン公フレデリク・モーリス・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュが、リシュリューの失脚を狙ったサン・マールの陰謀に加担し失敗、投獄。妻がセダン公国をスペインに売り渡そうとしたため、より好条件のフランスに譲渡した。
  • 【三十年戦争†訃報】1640年9月30日 ギーズ公シャルル1世/カトリック同盟の中心人物だったがアンリ4世と和解後はレヴァント提督となった。しかしルイ13世治下では母后マリー派としてリシュリューに陰謀を企てたり、ラ・ロシェル攻囲戦では指揮を放棄したため失脚しフィレンツェに亡命した。

10月

  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1620年10月1日 バッハラッハ占領/皇帝の許可を得て三十年戦争に介入したスペイン軍の「プファルツ遠征」の攻囲戦。コルドバ将軍はスピノラ侯の命により補給の要地であるバッハラッハへ向かったが、スペイン軍を見ただけで守備隊が降伏。街は難なく占領された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1622年10月2日 ベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦/休戦が失効して最初の、マウリッツvsスピノラ・リターンズ。しかしいずれの側も精彩を欠き、冬を前にスピノラは撤退した。マンスフェルト伯やブラウンシュヴァイク公に頼ったオランダ側も、彼らの軍隊の収奪に苦しんだ。
  • 【三十年戦争†訃報】1647年10月2日 ジャン・ド・ガション/リシュリュー枢機卿に「戦争野郎」と呼ばれた軍人で、とくに騎兵戦術の改革に尽力した。フランス元帥となったが、すぐに王族であるアンギャン公の元に所属し、ロクロワの戦いで決定的な役割を果たした。ランス攻囲戦の傷が元で死亡。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1622年10月3日 アルトドルフ大学開設/皇帝フェルディナント2世はニュルンベルク近郊のアルトドルフのアカデミーに大学としての特権を与える。それと引き換えに帝国自由都市ニュルンベルクはウニオンから脱退した。ヴァレンシュタインやパッペンハイムも卒業生。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1645年10月3日 フィリップスブルクの戦い/2ヶ月前の第二次ネルトリンゲンの戦い(アラーハイムの戦い)でフランス軍がキャンプとして用いたフィリップスブルクで、皇帝軍のレオポルト・ヴィルヘルム大公がテュレンヌ元帥を破る。大公の数少ない勝利のひとつとなった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1636年10月4日 ヴィットストックの戦い/バネール将軍は自らの本軍を囮とし、トルステンソン将軍の別動隊による側面攻撃で、皇帝軍の挟撃に成功する。スウェーデンにとってのポンメルン死守は、プラハ条約後の新教側の勝利として大きな意味を持ち反攻の契機ともなった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1621年10月5日 トルナヴァの戦い/皇帝との和平交渉を優位に進めようと考えたベトレン・ガーボルは、スロバキアのカトリックの中心地であるトルナヴァを占拠。皇帝軍のルドルフ・フォン・ティーフェンバッハがその解放に当たるが、劣勢のため敗退を余儀なくされた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1648年10月5日 ダッハウの戦い/皇帝軍のピッコロミーニ元帥率いる皇帝・バイエルン軍が、ウランゲル元帥率いるフランス・スウェーデン軍を撃破。皇帝軍は、ヴェルト元帥・モンテクッコリ元帥等、軍を3つに分けて新教軍を追撃した。ウランゲル元帥は徒歩で敗走した。
  • 【三十年戦争†訃報】1634年10月6日 ザルム・キルブルク・メルヒンゲン伯オットー・ルートヴィヒ/スウェーデン軍のアルザス・上ライン地域の将軍として活躍。ネルトリンゲンの戦いに敗れた後、約1か月間敗走を続け、シュパイアーの街でペストに罹り仏国王との条約に調印したその日に病死した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年10月6日 ザクセンがスウェーデンに宣戦布告/5月30日のプラハ条約では多くの新教側がスウェーデンとの同盟から脱落し皇帝側に従った。その中心人物でもあったザクセン選帝侯ヨハン1世ゲオルクは、これから10年に渡りスウェーデン軍に敗北を重ねることになる。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年10月6日 イサベル・デ・ボルボン/アンリ4世の次女。スペイン・フランスの二重結婚によりフェリペ4世妃となった。カタルーニャ反乱の際国王不在時の摂政となる。その際にマントヴァ公妃らと「女性の陰謀」を企て、オリバーレス公伯爵の失脚に一役買ったとされる。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1620年10月7日 ムラディー・スモリヴェツの戦い/アンハルト公クリスティアン1世率いるボヘミア軍は、ニュルンベルクからの交易路沿いに進軍してきていた皇帝軍のブッコワ伯のキャンプを早朝に急襲、退却を強いた。この1か月後、白山の戦いが行われることになる。
  • 【三十年戦争†訃報】1637年10月7日 サヴォイア公ヴィットーリオ1世アメデーオ/父カルロ1世エマヌエーレがマントヴァ継承戦争中に病死したため、その後すぐに和平を申し出戦争を終わらせた。フランスが三十年戦争に介入するとその支援をおこなった。自らも軍を率いて参戦している。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1642年10月7日 レリダの戦い(1642)/フランス・スペイン戦争のスペイン戦線で連戦連勝し、同年フランス元帥になったばかりのフィリップ・ド・ラ・モート・ウーダンクールが、ここでもスペイン軍のレガネス侯を撃破。しかし直後のトゥルトーザ攻囲戦では逆に敗走する。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年10月7日 リンブルク・シュティルム伯ヘルマン1世オットー/ドイツ傭兵として、ブラウンシュヴァイク公クリスティアンの軍でシュタットローンの戦いに参戦。その後オランダ共和国軍に所属を変え、騎兵将校として活躍した。サス・ファン・ヘント攻囲戦時の負傷が元で死亡。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1619年10月8日 ミュンヘン条約(1619)/スペイン大使オニャテ伯の仲介で結ばれた皇帝フェルディナント2世とバイエルン公マクシミリアン1世間の条約。バイエルン公が皇帝を支援する見返りに、プファルツ選帝侯位及び選帝侯領が与えられることとされた。
  • 【三十年戦争†訃報】1642年10月9日 スービーズ公ベンジャミン・ド・ロアン/ユグノーの指導者ロアン公アンリの弟。ユグノー内戦では兄を助け、ラ・ロシェル攻囲戦等で戦ったが、イングランドの援軍との連携がうまくいかず敗れた。ラ・ロシェル陥落後はイングランドに亡命し、ロンドンで過ごした。
  • 【三十年戦争†訃報】1646年10月9日 バルタサール・カルロス・デ・アウストリア/フェリペ4世の長男で、スペイン王太子。オーストリア皇女と婚約していたが、結婚前に16歳の若さで死去。ベラスケスによってたくさんの肖像が描かれており、2018年のプラド美術館展にも出展された。https://artexhibition.jp/prado2018/
  • 【三十年戦争†訃報】1647年10月9日 アンゼルム・カジミール・ヴァンボルト・フォン・ウムシュタット/三十年戦争期に3人を数えたマインツ選帝侯の1人。先々代の選帝侯クロンベルクの部下にあたり、カトリック連盟にもその名代で参加していた。マインツはスウェーデンとフランスに二度占領された。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1633年10月10日 シュタイナウの戦い/国王グスタフ亡き後、7月のオルデンドルフの戦い、8月のプファッフェンホーフェンの戦いと勝利を重ねてきたハイルブロン軍は、ここに至って敗北を喫した。1633年はヴァレンシュタインの動きも沈静化し、両軍は互角のまま年を終える。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1637年10月11日 ブレダ攻囲戦(1637)/1625年に兄マウリッツの死とブレダの陥落で苦いデビューを飾ったオランイェ公フレデリク・ヘンドリクが、12年後に見事リベンジを果たしブレダを取り戻した攻囲戦。この後彼は「都市奪還者」と呼ばれ名声を受けることになった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1646年10月11日 ダンケルク攻囲戦/フランス軍のアンギャン公ルイ2世が陸から、また、海からの補給が絶えないダンケルクを同盟国オランダのトロンプ提督の艦隊によって封鎖し、フランスがダンケルクを占拠。フランス・オランダ間の貿易の阻害要因と海賊が一掃された。
  • 【三十年戦争†訃報】1648年10月11日 トランシルヴァニア公ラーコーツィ・ジェルジ1世/三十年戦争初期には最後までベトレン・ガーボルに従ったひとりだった。ベトレンの死後トランシルヴァニア公を継ぎ、三十年戦争後期にスウェーデンと同盟して皇帝に対して宣戦布告したが、翌年には和平に応じた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年10月12日 ブールハルディの洪水/オランダ一帯からドイツのディットマールシェンまでにかけての北海沿岸で発生した、暴風雨に起因した洪水。8000-15000人が溺死したとされる。詳細をオランダの干拓エンジニアであるレーフワーテルが書き残している。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年10月12日 キルヒベルク伯オットー・ハインリヒ・フッガー/アウクスブルクの有名な金融業者フッガー家の末裔。彼自身は既に商人ではなく軍人貴族で、バイエルン軍の中でも活動的な将軍のひとりだった。金羊毛騎士でもある。三十年戦争後にフッガー家の事業は解散した。
  • 【三十年戦争†訃報】1646年10月12日 フランソワ・ド・バソンピエール/フランス元帥・外交官。主に国内のユグノー内戦に対処し、軍人として名を挙げた。半面、外交官としては成功していない。反リシュリュー陰謀の疑いで捕らえられ、1631年からリシュリューの死までバスチーユに投獄されていた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年10月13日 アルフェルト会談/デンマーク軍をヘッセンから追撃するティリー伯と、ニーダーザクセンから進撃するヴァレンシュタインが合流、会談の席を設けた。その結果ティリー伯が留まり、ヴァレンシュタインがハルバーシュタットへ向かうこととなった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1630年10月13日 レーゲンスブルク和約/マントヴァ継承戦争の最初の和平条約。ヌヴェール公は正式にマントヴァ公及びモンフェラート公として承認されたが、フランス側にドイツ不干渉条項が課されていたため、リシュリュー枢機卿はこの和約を無視、一時停戦を破棄した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1644年10月13日 フェーマルン島の海戦/トルステンソン戦争の戦いのひとつ。スウェーデン海軍は自軍を上回る数のオランダ海軍の助力を得て、デンマーク海軍をほぼ壊滅させた。スウェーデン側が37隻中1隻しか失わなかったのに対し、デンマーク側は2隻しか残らなかった。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年10月14日 ロレーヌ公フランソワ2世/アンリ4世下のフランスで軍人と外交官を歴任した。1621年には兄アンリ2世とともに皇帝軍に志願している。兄の娘2人と自分の息子2人がいとこ婚をしたことから、継承の複雑になったロレーヌ公位をいったん継ぎ、5日後に長男に譲った。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年10月15日 ヴュルツブルク占領/国王グスタフ2世アドルフが率いるスウェーデン軍は、バイエルンへ向けて進軍する途中、ヴュルツブルクに街の明け渡しを要求。中世の防壁しか持たず敵の火力に耐えられないと判断した街は、破壊を避けるため要求に応じた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1638年10月15日 オクセンフェルトの戦い/ブライザッハ攻囲の準備のためランズクロンにいたローゼン将軍は、ロレーヌ公の軍が接近していることを知り、ザクセン・ヴァイマール公に救援を依頼。ヴァイマール軍とロレーヌ軍は交戦になり、ロレーヌ軍が敗退した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年10月16日 ラインフェルデン攻囲戦(1633)/スペイン軍のミラノ総督フェリア公がラインフェルデンを急襲して奪還した攻囲戦。スウェーデン国王の戦死を受け、ライン地域を確保し「スペイン街道」の安全性を高めるという、オリバーレス公伯爵のプランの一環。
  • 【三十年戦争†訃報】1628年10月17日 ザクセン・ヴァイマール公ヨハン・フリードリヒ/ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトの五兄。兄弟たちと新教側としてヴィンプフェンの戦いに参加するが、旧教側に加担しようとしたため兄弟たちに投獄された。悪魔と契約したと書き残した翌日に獄死。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1638年10月17日 フロートーの戦い/フリードリヒ5世の遺児カール1世ルートヴィヒがイングランドとスウェーデンの助力を受け、プファルツ奪還のため自ら指揮を執ったが、ベテランのハッツフェルト元帥の前に敗れる。この敗北で英軍とプファルツ軍は表舞台から消えた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1622年10月18日 モンペリエ条約/フランス国王ルイ13世と、ユグノーの指導者ロアン公アンリ2世間の条約。モンペリエ攻囲戦の終戦条約で、ユグノーはモンペリエを国王に明け渡すのと引き換えに、ナントの勅令を国王から全面的に認められ、反乱に対する恩赦を得た。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年10月18日 マリエンベルク要塞占領/バイエルンへ向けて進軍するスウェーデン軍は、ヴュルツブルクを占領するとその翌日から近郊のマリエンベルク要塞も襲撃。市民や聖職者を含む700人を虐殺した。その後スウェーデンは国王の死後の1634年まで占領を続けた。
  • 【三十年戦争†訃報】1634年10月18日 ハンス・ウルリヒ・フォン・エッゲンベルク/カール・フォン・ハラハと並んでフェルディナント2世皇帝への影響力の強かった宮廷顧問官。皇帝の対宗教改革や中央集権化を支持し、それら数々の功績から地位や爵位、金羊毛騎士などの名誉を得ている。
  • 【三十年戦争†訃報】1630年10月19日 ブロンクホルスト・バーテンブルク伯ヨハン・ヤーコプ(アンホルト伯)/バイエルン軍の将軍として主にティリー伯麾下で対デンマーク戦を戦った後、皇帝軍元帥となる。皇帝軍では「アンホルト伯」と呼ばれることが多い。キャリアの絶頂期にあって、結核のため病死。
  • 【三十年戦争†訃報】1636年10月19日 マルチン・カザノフスキ/ポーランド・リトアニア共和国の王冠領ヘトマン。スウェーデン・ポーランド戦争ではグジノの戦いに参戦し、のちロシアとのスモレンスク戦争では国王ヴワディスワフ4世に従って戦った。聖母のイコンを発見したエピソードをもつ。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年10月20日 フランソワ・シュブレ・ド・ノワイエ/フランスの政治家でイエズス会士。国王ルイ13世の秘書や顧問官でもあり、軍制改革に力を発揮した。フランスの軍制改革は彼の力が大きく、とくに要塞建築を得意とした。リシュリュー枢機卿の死と共に失脚した。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年10月21日 エーベルシュタイン伯カスパール/当初スウェーデン軍、その後ヘッセン軍に雇われた。リュッツェンの戦いにはヘッセンの兵を率いて参加している。1640年にヘッセンの元帥となり、おもにケルン大司教区で戦功を挙げた。行軍中の小競り合いで戦死。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1635年10月22日 デーミッツの戦い/同年10月6日のザクセン選帝侯の宣戦布告を受け、スウェーデン軍のバネール元帥は配下のルースヴェン将軍をデーミッツに差し向け、ザクセン軍のヴォルフ・ハインリヒ・フォン・バウディッシンを前後から挟撃、壊滅させた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1637年10月22日 ブライザッハの戦い/バイエルン軍のヨハン・フォン・ヴェルトと皇帝軍のフェデリゴ・ディ・サベリが、ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトを撃破。ヴェルトがこの年負傷したため、サベリは翌年、ゲッツェン将軍と共に再度ブライザッハで戦う。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1642年10月23日 ブライテンフェルトの戦い(1642)/スウェーデン軍のトルステンソン元帥が、皇帝軍のレオポルト・ヴィルヘルム大公とピッコロミーニ元帥を撃破。10年前のブライテンフェルトの戦いの再現ともいえる戦いで、この後もスウェーデンは攻勢を強める。
  • 【三十年戦争†訃報】1625年10月24日 ザクセン・アルテンブルク公フリードリヒ/親族のザクセン選帝侯軍から軍事キャリアを積み、シュタットローンの戦いで捕虜になった際もザクセン選帝侯の仲介で解放された。従兄のザクセン・ヴァイマール公フリードリヒとともにザクセンのフリードリヒと呼ばれた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1648年10月24日 ウェストファリア条約・ヴェストファーレン条約/三十年戦争終結条約。フランス、スウェーデンは領土拡大とともに、神聖ローマ帝国議会への参加権を獲得して国際的立場を強化、逆にハプスブルク家は勢力を後退させた。(百科事典マイペディアより抜粋)
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1619年10月25日 ウルリッヒシュキルヒェンの戦い/皇帝軍のブッコワ伯はホーエンローエ伯のボヘミア軍とハインリヒ・マティアス・フォン・トゥルンのモラヴィア軍に追撃を受け10月24日敗走したが、翌日、橋を破壊しながら退却し、敵勢力のウィーン進撃を阻んだ。
  • 【三十年戦争†訃報】1625年10月25日 ハンス・ミヒャエル・エリアス・フォン・オーベントラウト/若年期にはティリー伯と共に対トルコ戦を戦っていた。三十年戦争が勃発すると信教によって2人の陣営は分かれる。ティリー伯との戦いになった際、その目の前で銃で撃たれ、ティリー伯が最期を看取った。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1635年10月27日 サン・ジェルマン・アン・レー条約/フランス国王ルイ13世とザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトとの間の条約。フランスはベルンハルトにドイツ方面軍の指揮権を移譲して皇帝軍に対立させ、ハプスブルク家の持つアルザス地方の占有を認めた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1628年10月28日 ラ・ロシェル開城/16世紀から続くユグノー戦争の最終段階の攻囲戦。ルイ13世とリシュリュー枢機卿はユグノー鎮圧を最優先事項とし、信教の異なるオランダや、オランダの敵であるスペインからも援助を得て有利に進めた。『三銃士』の舞台のひとつ。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1646年10月29日 フェンロー攻囲戦(1646)/本格的に攻囲を敷く前に冬の到来により失敗した、オランダ八十年戦争最後の攻囲戦。この直後、オランダはミュンスターに代議士を派遣し、三十年戦争の講和交渉そっちのけで、スペインとの単独講和を独自に進めることになる。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年10月30日 ローテンブルク・オプ・デア・タウバー占領/ルター派の街は、ティリー伯の宿営を断ったため攻囲され占領される。歴史劇『マイスタートゥルンク』では、老市長ヌッシュが大量のワインを一気飲みして、ティリー軍から街の略奪を防いだとされる。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年10月30日 アンリ2世ド・モンモランシー/ユグノーの反乱やマントヴァ継承戦争などに、フランス国王軍の将軍として参戦。その活躍によってフランス元帥となった。しかし王弟ガストンによる陰謀に加担、過去の功績や貢献も考慮されず、見せしめとして斬首刑に処された。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1639年10月31日 ダウンズ沖の海戦/三十年戦争へのフランス参戦により、補給路を陸の「スペイン街道」ではなく海路に頼ることにしたスペインが「第2のアルマダ」をフランドルに派遣。オランダのマールテン・トロンプ提督はこれに圧勝、スペイン海軍を壊滅させた。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年10月31日 第7代オニャティ公イニゴ・ベレス・デ・ゲバーラ/スペインの政治家。三十年戦争では主にその前半、皇帝との外交により、プファルツ選帝侯位をバイエルン公に移譲させるなど暗躍した。レルマ公失脚の後の寵臣の地位を狙っていたが、国王の寵は得られなかった。

11月

  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1634年11月1日 パリ条約(1634)/ネルトリンゲンの戦いで大敗し、ハイルブロン同盟も崩壊したスウェーデンはフランスに援助を依頼。フランスは兵力と資金の提供を約したが、この時点では正式な参戦ではない。翌年この条約を改善したコンピエーニュ条約が締結された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1622年11月2日 マンハイム占領/プファルツの首都ハイデルベルク陥落後、皇帝軍のティリー伯はイングランドの援軍司令官ホレス・ヴィアーが守るマンハイムに向かう。ヴィアーら英軍は街が降伏した後もシタデルに籠城し抵抗を続けたが、最後には開城に応じた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1619年11月4日 フリードリヒ5世、ボヘミア王戴冠/当時はパンフレットでの舌戦も盛んだったため、皇帝側はどうせ数か月しかもたない、として「冬王」という綽名をつけた。白山の戦いがちょうど1年後なので1年はもったといえるが、2冬は越えられなかった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1645年11月4日 フルスト攻囲戦/八十年戦争最後の大規模攻囲戦にして、オランダ側の勝利した最後の戦いでもある。ミュンスター条約でオランダとスペイン領南ネーデルランドの国境が定められた後、再度1664年に確認され、現在のオランダ・ベルギー国境となっている。
  • 【三十年戦争†訃報】1645年11月5日 ポーポリ公アンドレア・カンテルモ/ナポリ出身で、スペイン軍に身を置き、ヨーロッパ中の戦争に参戦した。グラウビュンデン紛争、マントヴァ継承戦争、フランドル戦線、カタルーニャ反乱など。歴史に造詣が深く、著作も書き残したが現存していない。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1632年11月6日 リュッツェンの戦い(旧暦)/スウェーデン国王グスタフ2世アドルフと皇帝軍元帥ヴァレンシュタインが戦った、三十年戦争中盤のハイライト的な戦い。スウェーデン国王の戦死が、皮肉にも、皇帝側のヴァレンシュタイン不要論の引き金ともなった。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年11月6日 スウェーデン国王グスタフ2世アドルフ/ナポレオンによるまとめが秀逸。「偉大なるグスタフ・アドルフを見よ!18ヶ月のうちに、彼は最初の戦いに勝利し、2度目に敗北、そして3度目に命を落とした。彼はなんと安価に名声を手に入れただろう!」(Wikiquote)
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1619年11月7日 エリザベス・ステュアート、ボヘミア王妃戴冠/夫フリードリヒ5世の戴冠に3日遅れて王妃も戴冠。フリードリヒ5世のボヘミア王即位受諾は、妻エリザベスの影響が大きい。エリザベスは王女である自分より夫の身分が低いのを嫌い、即位を後押しした。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年11月7日 カディス防衛/英西戦争において、スペイン海軍がイングランド海軍を撃退。イングランドはスペインの財宝を奪取しプファルツ奪還の資金に充てようと目論んだが、海軍経験者の不足から自滅した。ブエン・レティーロ宮殿の戦勝画の題材にもなった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1620年11月8日 白山の戦い/プラハ西方郊外のビーラー・ホラの丘で衝突した神聖ローマ皇帝軍とボヘミア貴族・傭兵軍との戦闘。三十年戦争の発端となったボヘミア・ファルツ戦争時の決戦で戦火が全ヨーロッパ規模に拡大される原因となった。(世界大百科事典より抜粋)
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1627年11月8日 フノー橋の戦い/サン・マルタン・ド・レ(レ島)攻囲戦最後の戦い。バッキンガム公率いる英軍が大敗し、本国に撤退した。英軍は貴族が多数戦死し捕虜となった。フランスのショーンベール元帥は、バッキンガム公が出発するのを見届けるまで現地に留まった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1618年11月9日 ロムニツェ・ナト・ルジュニツィーの戦い/トゥルン伯率いるボヘミア軍が、ブッコワ伯率いる皇帝軍を撃破し、一時カトリック勢力をボヘミアから駆逐した。しかしこの時皇帝軍を追撃し壊滅に追いやらなかったことが、ボヘミア側のミスとなった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1636年11月9日 コルビー攻囲戦/8月にスペイン軍によって陥落したコルビーをフランス軍が奪還。フランス軍は国王ルイ13世と王弟ガストンが兵を率いた。スペイン側も枢機卿王子フェルナンドが救援軍を組織したが失敗、コルビーの守備隊は6週間後飢餓のため降伏した。
  • 【三十年戦争†訃報】1641年11月9日 枢機卿王子フェルナンド/従兄のフェルディナント(のちの3世皇帝)とネルトリンゲンの戦いで華々しくデビューした後、フランドル戦線でオランダ・フランス軍に連勝し、スピノラ侯に匹敵する最高のスペイン司令官と謳われる。毒殺と疑われる病死を遂げた。
  • 【三十年戦争†訃報】1624年11月10日 第3代サウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリー/エリザベス女王期の第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーのクーデターで知られる。国王の代替わり時に釈放され、以降ジェームス1世に仕えた。ベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦に志願兵を率いて参戦した際に病死。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1630年11月11日 欺かれし人々の日/フランス王太后マリーが、息子ルイ13世に直接働きかけてリシュリュー枢機卿の罷免を迫った。ルイ13世は一度はそれに応じたものの翌日母后に反旗を翻し、コンピエーニュへ追放。この後リシュリューの勢いはますます強まった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1642年11月11日 クリンゲンタールの戦い/第二次ブライテンフェルトの戦いで勝利し勢いに乗るスウェーデン軍のトルステンソン元帥は、ザクセンでの支配権を確立するため、敵勢力の掃討作戦を実施する。この戦いで敵軍を壊滅させると、生き残りもすべて処刑した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1618年11月13日 ドルトレヒト宗教会議開催/スペインとの十二年休戦期のオランダにおいて、宗教論争に敗れた穏健派を駆逐すべく、厳格派を国教に据える目的で開催された出来レース的な会議。英国王ジェームス1世が糸を引き、大陸の新教国のほとんどが参加した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1633年11月14日 レーゲンスブルク占領(1633)/1632-1634年に3回に渡って占領・奪還が繰り返された第2回め。バイエルンの守備隊によって守られたレーゲンスブルクを、ザクセン・ヴァイマール公が占領。スウェーデン軍のラルス・カッグが新たな守備を担った。
  • 【三十年戦争†訃報】1629年11月15日 トランシルヴァニア公ベトレン・ガーボル/ハプスブルク家の対宗教改革に反対し、ハンガリー侵攻を繰り返した。一時期ハンガリー王に選出されたが、ハプスブルクとの和解を重視し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世とは同じ道をたどらなかった。
  • 【三十年戦争†訃報】1630年11月15日 ヨハネス・ケプラー/ドイツの天文学者、数学者。「ケプラーの法則」を発表。ティコ・ブラーエとともに神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に宮廷占星術師として仕え、その死後はリンツに数学者として居住した。晩年は三十年戦争の影響で何度も転居を余儀なくされている。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年11月15日 プラハ占領/皇帝軍からザクセン軍に鞍替えしたハンス・ゲオルグ・フォン・アルニムは、ブライテンフェルトの戦いでスウェーデン軍とともに皇帝軍に勝利すると、そのままザクセン軍を率いてボヘミアに侵攻した。プラハ占領の後、ニンブルクに向かう。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1640年11月15日 リーベルスドルファーベルクの戦い/ヘッセンのツィーゲンハイン北部で戦われたフランス軍と皇帝軍の戦い。ザクセン・ヴァイマール公亡き後の軍を引き継いだフォン・ローゼン将軍が側面攻撃によって勝利。皇帝軍のフォン・ブレダ将軍は撃たれて戦死した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1632年11月16日 リュッツェンの戦い/ユリウス暦を使用していたスウェーデンではグスタフ2世アドルフの命日を11/6としているが、グレゴリオ暦の採用の多いドイツではリュッツェンの戦いは11/16とされ、パッペンハイム伯の戦死と一見10日間の誤差があるようにみえる。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年11月17日 パッペンハイム伯ゴトフリート・ハインリヒ/マグデブルクでの非道とリュッツェンでの戦死のイメージで語られることが多いが、三十年戦争の前半期はティリー伯と並んで最も力のある将軍。とくに、ドイツ中を縦横無尽に移動するその騎兵の機動力が重宝された。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年11月17日 アンリ・ド・ショーンベール/ユグノーの反乱やマントヴァ継承戦争などに、フランス国王軍として参戦。カステルノーダリの戦いでモンモランシー公を破り処刑に追い込むが、自身もその直後に卒中で急死した。息子シャルルも同じ「ショーンベール元帥」を名乗った。
  • 【三十年戦争†訃報】1643年11月17日 ゲブリアン伯ジャン・バチスト・ビュード/オランダ仕込みのフランス元帥。ザクセン・ヴァイマール公、ヨハン・バネール、レンナート・トルステンソン等と共闘し戦功をあげる。トルステンソンとの共同戦線の最中に受けた傷がもとで死去。大きなつけぼくろが特徴。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1626年11月18日 新サン・ピエトロ大聖堂竣工/4世紀ローマに建てられた旧聖堂の老朽化により、1506年に着工された新聖堂が120年の建設期間を経て竣工。旧聖堂の取り壊しは着工ちょうど100年の1606年に決定された。献堂式は教皇ウルバヌス8世が執り行った。
  • 【三十年戦争†訃報】1625年11月19日 ハーナウ・リヒテンベルク伯ヨハン1世ラインハルト/三十年戦争期、領地は新教軍両軍に蹂躙され、疫病も蔓延し、多大な被害を被った。しかし、貨幣鋳造権を所有していたラインハルトは、詐欺まがいの方法で年間7万フローリンもの通貨鋳造益を吸い上げた。
  • 【三十年戦争†訃報】1630年11月19日 コラルト伯ランボルド8世/三十年戦争初期、皇帝軍の連隊長として、ハンガリーで対ベトレン・ガーボル戦を戦った。マントヴァ継承戦争において元帥となったが、この頃から病がちになり、マントヴァ略奪には加わらず、継承戦争の決着前に病死した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1626年11月20日 オーバーエスタライヒ農民戦争/1625年に勃発した農民の反乱は1626年7月にその指導者を亡くして以降、11月には最後の4都市に集結していた反乱軍が相次いで皇帝軍のパッペンハイムによって壊滅させられる。11/20のヴォルフスエックが最後の地となった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1627年11月20日 フランツブルク降伏文書調印/ポンメルン公ボギスラフ14世と、皇帝軍のフォン・アルニム将軍の間で調印された降伏文書。ポメラニアには皇帝軍が駐留して領地を荒らし、さらにスウェーデンの上陸後は、2つの勢力の間で翻弄されることになった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1646年11月20日 死の丘の戦い(フランケンベルクの戦い)/ヘッセン戦争においてスウェーデンの助力を得たヘッセン・カッセル軍が、皇帝軍の助力を得たヘッセン・ダルムシュタット軍に勝利した戦い。皇帝軍のエーベルシュタインは、もとはヘッセン・カッセルの将軍だった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1618年11月21日 ピルゼン攻囲戦/ボヘミアの反乱により逃亡したカトリック勢力は、集結してピルゼンに立て籠もった。マンスフェルト伯による2ヶ月間の兵糧攻めで街は新教側の手に落ちる。これは皇帝の怒りを買い、皇帝の大軍がボヘミアに向けられることになる。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1627年11月21日 フェルディナント3世、ボヘミア国王選出/神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の長男。1625年にハンガリー国王、1627年にボヘミア国王に選出されるが、次の神聖ローマ皇帝となる「ローマ王」の称号はすんなり得ることができなかった。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年11月21日 ニルス・ブラーエ/国王グスタフ2世アドルフの近衛隊として、スウェーデン・ポーランド戦争以来国王と共に軍歴を重ねた。トルステンソン将軍と並び、当世一の軍人とも言われたが、リュッツェンの戦いの際の負傷が元で戦死。国王の愛人エバ・ブラーエは従姉妹。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1646年11月22日 レリダ攻囲戦(1646)/カタルーニャ副王を名乗るフランス軍のアルクール伯アンリが5/12からレリダを攻囲し、スペイン守備隊の通行を一切禁じた。半年後、食料と弾薬が尽きたレリダにレガネス侯の救援軍が到着、フランス軍を撤退させた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1619年11月23日 フメンネーの戦い/三十年戦争にポーランドが関わった唯一の戦闘とされる。皇帝フェルディナント2世はポーランド国王ジグムント3世に、トランシルヴァニアからの補給路を断つよう要請。国王は国軍ではなくリソフツチィ傭兵団を投入することで対応した。
  • 【三十年戦争†訃報】1637年11月23日 エスピナル侯カルロス・コロマ/スペインの政治家・外交官・軍人。仏西戦争期から軍人として名を挙げ、三十年戦争期、プファルツ遠征においてスピノラ侯の後任としてプファルツの平定と戦後処理を担当した。駐英大使を歴任した後、スペイン本国で評議員を務めた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1644年11月23日 ユーターボークの戦い/トルステンソン戦争に対するデンマークからの救援依頼に、皇帝はマティアス・ガラス軍を差し向ける。が、それを察したトルステンソンの迅速な動きと兵の疲弊のためガラスは退却、起死回生を図った騎兵での奇襲も失敗し壊滅した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1643年11月24日 トゥットリンゲンの戦い/冬営に入ろうとするフランス・ヴァイマール連合軍を、皇帝軍のメルシーとヴェルトが奇襲。戦いは1日半に渡り、フランス側は頑強な抵抗を示したものの、司令官のランツァウが捕虜となり敗走、そのままアルザスまで駆逐された。
  • 【三十年戦争†訃報】1626年11月25日 エドワード(ネッド)・アレン/英エリザベス1世期に成功した俳優。1619年にはパブリック・スクールである「ダリッジ・カレッジ」を創立している。現在連載中の漫画「7人のシェイクスピア」や、公演中の劇団四季「恋に落ちたシェイクスピア」にも登場する。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1648年11月26日 『ゼロ・ドムス・デイ』公布/教皇インノケンティウス10世は、ウェストファリア条約におけるカトリック教会への権利侵害や旧新教の同権を認めたことに対し、抗議の回勅を交付。公表されたのは1650/8/20だが、1648/11/26にバックデートされている。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年11月27日 フランシスコ・パチェーコ・デル・リオ/スペインの画家、著作家。ディエゴ・ベラスケスの師であり、かつ、義父でもある。彼の著した『絵画芸術論』や『肖像画集』は、スペイン最初の本格的な美術書として一級資料といえる。 https://musees-occitanie.fr/musees/musee-goya-musee-d-art-hispanique/collections/peinture-hispanique/francisco-pacheco/le-jugement-dernier/
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1627年11月28日 オリバの戦い/スウェーデン・ポーランド戦争最大の海戦。ポーランド・リトアニア共和国海軍は、グダニスク湾でスウェーデン海軍を迎え撃ち1隻を拿捕・1隻を沈めた。最大とはいっても10隻対6隻の小規模な海戦で、互いの勢力の縮小とまではならなかった。
  • 【三十年戦争†訃報】1626年11月29日 マンスフェルト伯エルンスト/三十年戦争前半のお騒がせ男のひとり。ぺんぺん草も生えないといわれるほどの略奪で悪名高い。新教側のほとんどの司令官と契約を結び、英国からバルカン半島までとその行動範囲は幅広い。ヴェネツィアへ向かう途上で病死。
  • 【三十年戦争†訃報】1632年11月29日 プファルツ選帝侯フリードリヒ5世/三十年戦争の直接原因かつ、三十年戦争前半のお騒がせ男のひとり。晩年は長男と一緒に溺れて(長男は溺死)体調を崩していた。マインツでペスト死。リュッツェンの戦いでのスウェーデン王の戦死が死期を早めたともいわれる。

12月

  • 【三十年戦争†訃報】1633年12月1日 執政イサベル・クララ・エウヘニア/共同統治者であった夫アルプレヒト7世の死後、オランダと戦争再開した南ネーデルランドを指導した。一貫して和平を志向したがその理想は現実味に欠け、貴族の内部分裂を招いた。画家ルーベンスを外交官として重用した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1630年12月1日 ラーコーツィ・ジェルジ1世、トランシルヴァニア公選出/前トランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルの死後、その未亡人が一時その跡を継いだが、トランシルヴァニア議会はシギショアラでラーコーツィをトランシルヴァニア公・ハンガリー王に選出した。
  • 【三十年戦争†訃報】1640年12月1日 ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルム/姻戚関係・宗教関係・地理的条件あらゆる面において複雑な状態にあるブランデンブルク領をうまく舵取りできず、蝙蝠外交の結果、あらゆる軍隊の略奪を受け、ドイツ一ともいわれる荒廃を招いた。亡命先で死亡。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1640年12月1日 ポルトガル王政復古戦争/スペイン国王フェリペ2世による併合から60年、スペイン支配に不満を持った貴族たちが副王やその宰相を相手に革命を起こし、ブラガンサ公ジョアンを新国王ジョアン4世として擁立。以降28年に渡って断続的な戦闘が続いた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年12月2日 マインツ・アメーネブルク占領/ブラウンシュヴァイク公クリスティアンがマインツ近くのアメーネブルクを占領。フリードリヒ5世に助力することにしたクリスティアンはこの冬、ミュンスターやパーダーボルンなど、ドイツ各地で略奪を繰り返した。
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  • 【三十年戦争†訃報】1632年12月2日 ザクセン・アルテンブルク公ヨハン・ヴィルヘルム/三十年戦争の前期にあたる時期、かなり長い間グランドツアーを続け、軍人ではなく客人としてブレダ攻囲戦に参加した。兄フリードリヒの戦死後にザクセン選帝侯の軍でキャリアを開始する。ボヘミアで熱病死。
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  • 【三十年戦争†訃報】1642年12月4日 リシュリュー枢機卿/国王ルイ13世のもと、フランスの国力を高めた名宰相。国内のユグノー問題を片付けると、満を持して三十年戦争に参戦、ハプスブルクの対抗勢力として多大な影響を与えた。意外に武闘派で、自ら出陣もすれば、軍制改革にも努めている。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1619年12月5日 ウィーン攻囲/1ヶ月前にブッコワ伯が進軍路を絶ったためトゥルン伯は約1ヶ月遅れてウィーンに現れたが、装備や兵士の不足により充分な攻囲戦ができず、彼のこの年の遠征は、皇帝軍にフラストレーションを与える以上の効果はなかった。
  • 【三十年戦争†訃報】1631年12月5日 トンマーゾ・カラッチョロ/フランドル戦線(オーステンデ攻囲戦)、モンフェラート戦争で戦歴を積んだ後、傭兵としてボヘミアに渡り白山の戦いに参加。皇帝からモラヴィア方面軍司令職を得た。晩年は故郷のナポリで、スペイン国王から官職と爵位を得て暮らした。
  • 【三十年戦争†訃報】1626年12月6日 ザクセン・ヴァイマール公ヨハン1世エルンスト/1617年の母の葬儀の際、貴族文芸サークル「実りを結ぶ会」を結成した。フリードリヒ5世に従い白山の戦いで敗れ、無条件降伏を拒否したため、領地や弟たちの後見人の権利を失った。ベルンハルトの長兄。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1631年12月7日 ニンブルクの戦い/皇帝軍からザクセン軍に鞍替えしたハンス・ゲオルグ・フォン・アルニムは、ブライテンフェルトの戦いの後、そのままザクセン軍を率いてボヘミアに侵攻した。プラハを占領し、ニンブルクではティーフェンバッハ元帥を破った。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年12月8日 フェルディナント3世、ハンガリー国王選出/神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の長男。1625年にハンガリー国王、1627年にボヘミア国王に選出されるが、次の神聖ローマ皇帝となる「ローマ王」の称号はすんなり得ることができなかった。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年12月8日 グスタフ2世アドルフ国王のライン川渡河/ダルムシュタット近郊のエアフェルデンでグスタフ2世アドルフ国王率いるスウェーデン軍がライン川を渡る。翌年、国王はこれを記念した記念碑を建設させる。「スウェーデンの柱」と呼ばれ12mの高さがある。
  • 【三十年戦争†訃報】1641年12月9日 アンソニー・ヴァン・ダイク/フランドルの画家。ルーベンスに師事し、おもにイングランド国王チャールズ1世の宮廷画家として活躍した。イングランドにとどまらず、三十年戦争両陣営の肖像画の多くを手掛けている。師同様に多筆で、日本にも多くの真筆が存在する。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1625年12月9日 ハーグ条約(1625)/イングランドのチャールズ1世とオランダの法律顧問アントニー・デイクが調印した条約。両国は、デンマーク戦争においてデンマーク軍がドイツで戦っている間の戦費を、国王クリスチャン4世に宛てて援助することを約した。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1640年12月10日 コラド・デ・バラゲーの戦い/収穫人戦争(カタルーニャ反乱)に対し、スペインは第5代ロス・ベレス侯ペドロ3世ファハルドをバルセロナへ向け派遣。12月、スペイン軍はコラド・デ・バラゲーを皮切りに、タラゴナ占領まで快進撃を続けた。
  • 【三十年戦争†訃報】1643年12月10日 ヘルマン・ウランゲル/スウェーデン・ポーランド戦争時代からの元帥。1629年・1635年の両条約を交渉した。ヨハン・バネール元帥とは非常に仲が悪く、1638年に帰国し、軍における地位は息子のカール・グスタフに継がせた。晩年はリヴォニア総督となり同地で死去。
  • 【三十年戦争†訃報】1634年12月11日 初代ビジャヌエバ・デ・バルドゥエサ侯ファドリケ・デ・トレド/スペインの提督でサンティアゴ騎士。ポルトガル・オランダ・イングランド等に何度も勝利した。ブエン・レティーロ宮殿のために描かれた戦勝画「セントキッツ島回復」にも描かれている。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1643年12月12日 トルステンソン戦争/スウェーデンとデンマークの緊張が高まる中、スウェーデンはオランダの支援を得てスウェーデンに侵入。三十年戦争の中ではめずらしく海戦がメインになった戦いでもある。皇帝軍は陸から援軍を送ったがデンマーク救援に失敗した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1645年12月13日 リンツ和平/神聖ローマ皇帝フェルディナンド3世とトランシルヴァニア公ラーコーツィ・ジェルジ1世との間に締結された和平。前年に皇帝に宣戦布告したトランシルヴァニア公だが、オスマンの介入もあり、信教の自由を条件に和平に応じた。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年12月14日 マリア・クララ・フォン・シュパウル・プフラウム・ファレア/エッセンの女子修道院長。カプチン会やイエズス会とつながりがあり、反宗教改革に熱心に取り組んだ。三十年戦争の戦火を避け、1629年以降はケルンのマリーエンガルテン修道院に住んだ。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年12月15日 ヴァレンシュタイン復帰/復旧令に反対した選帝侯たちの要請を受け、皇帝はいったんヴァレンシュタインを罷免。しかしその直後、スウェーデン軍のドイツ侵入とティリー伯の戦死によって危機感を持ったバイエルン選帝侯の要請を受け、司令官に再任した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年12月16日 ヴェスヴィオ山噴火/79年のポンペイ市を壊滅させた噴火以来の大噴火。3000-4000人が犠牲になった。周辺の小村がいくつも壊滅し、4万人もの人々がナポリに避難した。当時の版画にも噴火の様子が描かれる。 https://media.bibliothek.uni-augsburg.de/node?id=46729
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1640年12月16日 カンブリスの戦い/カタルーニャの反乱(収穫人戦争)に対し、スペインは第5代ロス・ベレス侯ペドロ3世ファハルドをバルセロナへ向け派遣。反乱軍は降伏を申し出たが認められず、3人の指導者は即日死刑、街は略奪され700名以上が殺害された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1638年12月17日 ブライザッハ攻囲戦(1638)/数か月間の断続的な攻囲の末、フランス軍のザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトは、ブライザッハ・アム・ラインを征服。救援軍のゲッツェン将軍が捕虜になったため、守備隊長のライナッハは降伏を決意した。
  • 【三十年戦争†訃報】1638年12月17日 フランソワ・ルクレール・デュ・トランブレー(ジョセフ神父)/リシュリュー枢機卿の腹心。「黒幕」の語源とされる。(フランスでは「灰色の枢機卿」と表現)。カプチン会の修道士で、一貫して反ハプスブルク政策を採り、スウェーデンとの同盟にも一役買った。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1627年12月18日 ヴォルフェンビュッテル占領(1627)/デンマーク国王クリスチャン4世はヴォルフェンビュッテルを軍のキャンプ地としていたが、ルッターの戦いでティリー伯に敗れると、のちパッペンハイム伯が攻囲のうえ占領。以降1641年まで皇帝軍の支配下に置かれた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1644年12月18日 スウェーデン女王クリスティーナ親政開始/女王が成人した直後、ちょうどスウェーデン軍はデンマークとのトルステンソン戦争の最中だったため、戴冠は戦争終結を待ってから行われた。親政開始以降、摂政オクセンシェルナとの関係は徐々に冷却する。
  • 【三十年戦争†訃報】1637年12月19日 トスカーナ大公妃クリスティーナ・ディ・ロレーナ/夫と息子が相次いで亡くなったため、嫁のマリーア・マッダレーナ・ダウストリア(皇帝フェルディナント2世の妹)とともに孫コジモ2世の摂政となる。イエズス会と親しく、皇帝に宗教面から影響を与えた。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1621年12月20日 キルドルフの戦い/パーダーボルン近郊を略奪していたブラウンシュヴァイク公クリスティアンは、アンホルト伯麾下のカトリック連盟軍の反撃に遭う。白山の戦いで戦功を挙げたアンホルト伯は同年伯に、翌年元帥にと、クリスティアンのおかげで出世した。
  • 【三十年戦争†訃報】1644年12月20日 ザクセン・アイゼナッハ公アルプレヒト4世/ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトの四兄。兄弟たちがすべて軍務に走ってしまったため、彼らの留守を預かる摂政として領地を治めた。年子の弟ヨハン・フリードリヒを監禁した。「実りを結ぶ会」のNo.17。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1632年12月21日 ドゥーツ攻囲/ヴォルフ・ハインリヒ・フォン・バウディッシン麾下のスウェーデン軍は、ケルン向かいの街ドゥーツを占領。しかしその翌日、街の激しい抵抗に抗えず撤退する。バウディッシンは他にもユーリヒ・ベルク領内等の中立都市を度々攻撃した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1641年12月21日 ハンブルグ暫定和平/三十年戦争の終結条約について規定された仮条約。「Preliminairesde Paix 予備的合意」という言葉が初めて使われた。ミュンスターとオスナブリュック2カ所での交渉の分離と、各都市及びその接続道路の中立性が規定された。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1636年12月22日 フェルディナンド3世、ローマ王選出/ハンガリー王とボヘミア王の選出は問題なかったが、帝位継承のためのローマ王への選出には時間がかかった。自身が軍司令官として結果を出し、プラハ条約を経た後のことである。レーゲンスブルクにおいて戴冠。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1644年12月22日 ビションの戦い/トルステンソン戦争において、デンマークのハンニバル・セヘステッドはノルウェー軍を率いて、歩兵をビション湖の氷上から、騎兵を湖の両岸から侵攻させ、早朝の奇襲をおこなった。スウェーデン軍は司令官の負傷もあり撤退した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1631年12月23日 マインツ占領/国王グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍がマインツ選帝侯領に侵攻し、都市マインツは5日間の攻囲のうえ「名誉の開城」を選んだ。この後スウェーデン軍はグスタフブルク要塞を建設し、マインツ図書館の史料は持ち去られた。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1624年12月24日 デンマークで郵便制度開始/16世紀以降デンマークではユトランド半島とフュン島を結ぶ郵便船が整備されてきたが、クリスチャン4世によってデンマークポストが設立されたのを制度開始とする。当初は4人の商人に委任されたが、1640年には国有化された。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1626年12月24日 ヴェンデン(ツェーシス)の戦い/グスタフ・ホルンとデ・ラ・ガルディのスウェーデン軍が、コサックやウィングハサーで構成されたリトアニア軍を撃破。寒冷地への追撃はできなかったが、リヴォニアとクールラントから一時追放することは可能だった。
  • 【三十年戦争・きょうの戦い】1630年12月25日 マルヴィッツの戦い/皇帝軍が占拠するグライフェンハーゲンをスウェーデンのグスタフ2世アドルフ国王が率いる軍が急襲。スウェーデン軍はわずかな犠牲で皇帝軍を退却に追い込んだ。スウェーデンがこの戦いによって沿岸に橋頭保を得たのは大きかった。
  • 【三十年戦争†訃報】1634年12月25日 ウォルター・バトラー/オーモンド伯に連なるアイルランド人傭兵で皇帝軍の連隊長。スウェーデン軍の捕虜になった際も、その勇猛さで国王グスタフ2世アドルフにも知られた。ヴァレンシュタインの暗殺の実行犯となる。ショルンドルフの戦いで戦死。
  • 【三十年戦争†訃報】1646年12月26日 コンデ公アンリ2世/コンデ公(アンギャン公)ルイ2世の父。国王ルイ13世の若年期は、母后マリーと対立したため投獄の憂き目にも遭った。三十年戦争期には国王に忠実な軍人として主に南仏や対スペイン戦を戦ったが、息子ほど軍事の才能はなかったようである。
  • 【三十年戦争†訃報】1641年12月27日 フランソワ・ファン・アールセン/オランダの政治家。マウリッツ、フレデリク・ヘンドリク2代のオランイェ公に仕えた。三十年戦争におけるフランスとの同盟をに尽力した。また、オランイェ公ウィレム2世と英国王女の縁組を成功させ、それを見届けて亡くなった。
  • 【三十年戦争†訃報】1624年12月28日 オーストリア大公カール・ヨーゼフ/神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の末弟。聖職者として司教を歴任し、ドイツ騎士団総長でもあった。兄皇帝から与えられたグラーツ伯領では激しい対抗宗教改革を行い、領内の新教徒を駆逐した。スペインで客死。
  • 【三十年戦争†訃報】1622年12月29日 ヨハン・ゴトフリート・フォン・アシュハウゼン/バンベルク司教とヴュルツブルク司教を兼任した。1609年、バイエルン公マクシミリアン1世が主導したカトリック・リーガの設立に尽力した。魔女裁判で名高く、三十年戦争期には領地の司教領を軍備増強した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1626年12月30日 プレスブルク和約/皇帝フェルディナント2世とトランシルヴァニア公ベトレン・ガーボル間の和約。先のニコルスブルク和約とウィーン和約を確認したものであったが、ベトレンは二度と皇帝に軍を向けないこととオスマントルコと同盟しないことを約した。
  • 【三十年戦争・きょうは何の日】1621年12月31日 ニコルスブルク和約/皇帝フェルディナント2世とトランシルヴァニア公ベトレン・ガーボル間の和約。ベトレンは軍を引きハンガリー王の称号を放棄することを条件にオポーレ公となり、皇帝によってハンガリー領でのプロテスタント信仰も認められた。