三十年戦争 400年企画

二つの正統と国家理性(下)

  七、ザクセン公将の決裂

 一六三五年五月三十日、ザクセン公は皇帝と正式に和平を結んだ。
 プラハ条約である。この条約は公表され、帝国の全ての諸侯に賛同・署名が求められた。
 この条約で、皇帝は復旧令を取り下げた。これによって、新教徒であれ、宗教政策を含む諸侯の領邦統治の権利は一切犯されないことが確認された。また、諸侯の同盟権は剥奪され、諸侯は皇帝の同盟者として位置づけられることになった。プラハ条約は、諸侯の同盟権を除く「ドイツの自由」の保障を確認するものであった。
 バイエルン公がカトリック諸侯連盟の消滅を認めてプラハ条約に署名して以来、帝国諸侯は信仰の新旧、規模の大小問わず雪崩を打って条約に署名して皇帝と和解した。条約に署名せず、皇帝に抵抗し続ける諸侯は三名だけであった。スウェーデン軍はいずれ孤立し撤退を余儀なくされるであろう……。
 帝国の平和回復は、すぐそこのように見えた。

 プラハ条約の立役者となったザクセン公ヨハン・ゲオルクは、皇帝との和平の代わりに一人の将軍を失うことになった。ザクセン軍司令官アルニムである。プラハ条約を巡って、一悶着あったのだ。
 ザクセン公が皇帝と和平を結ぶと聞き、アルニムは激昂してザクセン公の食卓に詰めかけた。
「殿。皇帝と和議を結ぶとはまことですか? 正気ですか?」
「まことだ。そして正気だ」ザクセン公は麦酒を一気飲みして続けた。「『ドイツの自由』を護持した上での帝国平和の回復。我々が望んでいたことが実現するのだぞ。余が皇帝と和平を結べば、諸侯も皆、皇帝と和平を結ばざるを得なくなる。そして平和が回復する」
「帝国にはスウェーデン軍が居座っています。その上、フランスは大軍を東へ動かす気配を見せている。これで帝国平和の回復などと言えますか?」
「フランスにはリシュリューが、スウェーデンにはオクセンシェルナがいる。この野心家たちを巻き込んでの全面講和など今では到底不可能だ」
「だからといって、皇帝との単独講和は愚劣すぎる!」とアルニムは怒鳴った。「これでは、築かれるのは平和ではない。新たな戦争体制だ。殿のザクセンはスウェーデンとの同盟から皇帝との、いやオーストリアとの同盟に鞍替えしただけのこと。否、ザクセンだけでない。ドイツの諸侯は皆、オーストリアの利益のために戦うことになるのです。ドイツは帝国の下で纏まることなく、ばらばらに分裂したまま各々がオーストリアに隷属し、敵味方の兵隊によって蹂躙され続ける! その責任を、ドイツに対する責任を殿は背負えるのですか!」
「黙れ!」
 ザクセン公はジョッキを床に投げつけた。召使はそれをすかさず拾い上げ、新たな酒を注ぐ。
「帝国に対する責任! 余はこれまでそれのみを心掛けて戦ってきた。我ら諸侯の『ドイツの自由』を守り抜き、帝国国制の下で平和を謳歌する。それを余は目指してきた。貴様は余の同志ではなかったのか! 余は粉骨の果てに、それを実現する手がかりを得たのだ。余の努力を、貴様は否定するのか!」
「ならば、なぜそれを貫かないのか。なぜ皇帝と単独で和議を結び、皇帝の忠実な下僕となってこれまでの努力を無にした? この期に及んで皇帝の忠臣気取りですか? 皇帝の都合良い同盟者としてのザクセン公が、帝国での平和回復にための影響力を持ちうるとお思いか?」
「どういうことだ……」
 ザクセン公の手が震えた。アルニムは口元を歪めて言った。
「ザクセン公の力はオーストリア家の何分の一だ? 自分の影響力が最大だったのはいつだ? それを考えれば分かることではありませんか!」
 ザクセン公が最大の影響力を誇ったとき。それはザクセン公がグスタフ・アドルフと同盟を結んでいながら、敵と通じる動きをしていたころのことだ。ザクセン公は一人でスウェーデン王や皇帝と渡り合えるほど強くないが、その動きには強者の選択を変える影響力があった。特に、「いつ裏切るかわからない」状況においては。
「あっ……」
「やっとお分かりになったか? 皇帝の狗(いぬ)に成り下がった弱きザクセンにドイツの平和を回復させることなどできない」
 言い終わると、アルニムはザクセン公の側に控える召使いからジョッキをひったくり、酒を一気に呷った。
「では、殿、これまでお世話になり申した。本日をもって、ザクセン軍司令官を辞めさせていただく」
「正気か」
「正気だ。もう私がドイツのために出来ることは何もない」
「これからどうするのだ? スウェーデンの女王にでも仕えて余と一戦交えるのか? それとも、ヴァレンシュタインの真似事でもするのか?」
「言った通り、もはや私はドイツのために何も出来ませぬ。もはや軍人でいる必要もない。一介の市井の民に戻るだけです。では、御免」
 アルニムは啖呵を切ってライプチヒの宮殿を立ち去った。
――この気性だけは治らぬ。
 ブランデンブルク生まれの信念の人、アルニムの経歴は波乱万丈である。最初ブランデンブルク辺境伯に仕えるが、決闘沙汰によって辞職を余儀なくされた。軍人としてスウェーデン王、ポーランド王のもとで戦って名を挙げた後、ヴァレンシュタインに才覚を見込まれて皇帝軍に身を投じた。皇帝のヴァレンシュタイン罷免に憤激して皇帝軍を去り、ザクセン公ヨハン・ゲオルクに仕えて辞めて今に至る。
――ザクセン公は俺にヴァレンシュタインの真似事でもするのかと言ったが、可能ならばしてみたかった。
 ヴァレンシュタインは野心家であり、皇帝を蔑ろにする不忠者であるというのが世間一般の評であるが、アルニムはヴァレンシュタインの真意は他にあると信じていた。
――ヴァレンシュタインこそが、誰よりもドイツの平和を考えていたのだ。「いつ裏切るかわからない」、その恐怖が皇帝をヴァレンシュタイン暗殺に駆り立てたのだろうが、その去就定かでない動きはドイツを思ってのことなのだ。
 ヴァレンシュタインはカトリック教徒だが、ルター派のアルニムを実力で評価し、大いに重用した。少なくとも、ヴァレンシュタインは宗教のために戦ったのではない。また、野心のために戦うのならば、殺される前に皇帝を破滅させていたはずだとアルニムは確信していた。
――ヴァレンシュタインは占星術かぶれの、何を言っているのかよく分からない不気味な男だ。だが、奴が「星が動き出した」などと言って変な決断を下すとき……。
 皇帝の命令に従わず軍を動かさなかったとき、皇帝軍総司令官を罷免されても反発しなかったとき、ボヘミアから撤退するようアルニムを説得したとき……。
――それはドイツのための決断なのだ。その際にヴァレンシュタインの星は動き出した。皇帝と諸侯、スウェーデンそして暗躍するフランス、それらの真っただ中で、ヴァレンシュタインは各所に手を伸ばしてドイツの平和を取り戻そうとしていた。王朝利益ばかりを追求する君侯には、最後までそれが理解できなかったのだ。私はヴァレンシュタインのドイツに対する衷情を感じ取り、気がつけば自分にも感染していた……。
 各地で軍歴を重ね、財を蓄えて名を挙げる。ごく普通の傭兵隊の将軍だったアルニムは、気がつけばザクセン軍司令官としてドイツの平和のために尽力するようになっていた。
 ――それが無駄になった今、俺は潔く軍服を脱ぐのだ。
 こうして一人の名将が一旦軍人を辞めたが、ドイツにおける軍人の求人は、これ以後も減ることはなかった。なお、アルニムは以後、スウェーデン軍に対して工作を行い、末端の兵士の脱走や反乱に手を貸した。そのためスウェーデン軍に危険人物視され、一度はスウェーデン軍に拉致されるも脱走し、死ぬまで外国軍に対する抵抗に尽くした。
 その後、ザクセン公は皇帝の同盟者として戦い、ザクセンは十年間スウェーデン軍の猛攻と劫掠に曝された末、一六四五年八月にスウェーデンと休戦する。そのころには、皇帝とスウェーデンの狭間にあって帝国に影響力を与える大諸侯は、ザクセン公ではなく、一六四〇年に代替わりしたブランデンブルク辺境伯兼プロイセン公フリードリヒ・ヴィルヘルムになっていた。二百数十年後、ザクセン公の子孫はフリードリヒ・ヴィルヘルムの子孫を皇帝として戴くことになる。

  八、二つの正統を巡る戦い

 一六三六年三月、皇帝はフランスに宣戦布告した。既にフランス軍は帝国に侵入しており、事実上交戦状態にあったのである。同じころ、プラハ条約で皇帝と同盟を結んだザクセン公とブランデンブルク辺境伯がスウェーデンに宣戦布告する。こうして、戦争は新たなラウンドに突入した。
 夏ごろには皇帝軍はフランスのパリに迫る勢いを見せ、皇帝の優勢は動かぬかに見えたが、十月にヴィットストックの戦いでスウェーデン軍に敗れた。皇帝にとっては小さな敗北だったが、これを機にスウェーデンは体勢を立て直すことにある。

 皇帝にとって最大の朗報は、十二月二十二日にレーゲンスブルク選帝侯会議によって、フェルディナント三世が満場一致でローマ王に選出されたことである。喘息に冒されていた五十九歳の皇帝は、「もはやローマ帝国は朕を必要としていない。立派な後継者がここにいるのだから」と満足げに来世への期待を述べるようになった。
 一六三七年初め、皇帝は病躯を押してレーゲンスブルクからウィーンへの帰途に就いた。
 フェルディナント二世は帰途に立ち寄った都市シュトラウビングからイエズス会の聴罪師ラモルマイーニのもとに手紙を送った。
 そこには、「長い朝のお勤めを簡略化したい」という旨が記されていた。
――これは、ただごとではない。
 ラモルマイーニ神父はすぐに悟った。一六二四年に皇帝の聴罪師に就任して以来、皇帝がそのような申し入れをしてきたのは初めてだった。
 皇帝は毎朝、キリストの五か所の傷に思いを馳せながら床に五度接吻することを日課としていた。病を患っても極寒の冬の日でも、皇帝は勤行を怠ったことはなかった。それどころか、夜中にふと目覚めてはベッドの傍らで跪いて神に祈ることさえあり、皇后から休むように懇願されることさえあった。皇帝は、文字通り身を削るような信仰生活を送っていたのである。
 重病の皇帝は二月八日にウィーンに到着、ベッドに担ぎ込まれた。
「ラモルマイーニ、ただいま参上いたしました」
「神父殿、待っていたぞ」
 ラモルマイーニを呼び寄せた皇帝は横になったまま弱弱しく言った。
「朕はローマ皇帝の任にありながら、帝国から異端を一掃して正統信仰に帰らせることができなかった。この罪を、神はお許しになるでしょうか」
「罪人フェルディナントよ、その罪は必ずしも軽くはない。だが、神はその崇高な使命を汝の敬虔なる息子ローマ王に託されたのです。神は、汝が世襲領で多くの謬れる羊たちを正しい信仰に帰したことを嘉しておられる」
「嗚呼、リンツ……」
 フェルディナント二世はそう呟くと、熱い涙を流した。皇帝はレーゲンスブルクからの帰途、上オーストリアの都市リンツで改宗者たちがカトリック教会に列をなして姿を見た。彼はその感激すべき光景を思い出したのである。つられてラモルマイーニまでも涙しそうになったそのとき、皇帝が激しくむせ込んだ。
――これ以上、話させるのはよくない。
 神父は皇帝に今日は十分眠るようにと伝えて辞去した。が、皇帝の玉の緒は長くは持たなかった。
 二月十五日午前九時、フェルディナント二世は皇后や娘に看取られながら、「いま、神、我を逝かせ給う」と安らかに崩御した。皇帝軍優勢のうちに、戦いに明け暮れた生涯を終えたのである。
 敬虔な皇帝の長い戦いを近くで眺めてきたのがラモルマイーニ神父だ。眺めるだけでなく、彼は復旧令の発令を熱心に勧めるなど、政治的な影響をフェルディナント二世に与えてきた。
――皇帝陛下は正統信仰のために孤闘の生涯を送ってこられた。教皇猊下がカトリックよりも権力政治を取ったがために……。
 本来、皇帝と教皇はカトリック信仰を守るために共闘すべき存在である。だが、ローマ教皇は両ハプスブルク家の勢力伸長を望まず、反皇帝政策を取ってきたのだ。
――文字通り、フェルディナント二世は神聖な皇帝であらせられた。それを語り継ぐべきなのは、そば近くで長年お仕えしてきた私だ。教皇庁の歴史記述によって、陛下の偉大な信仰が蔑ろにされてなるものか。
 ラモルマイーニ神父はある決意を固めて、羽ペンを手に執った。

 次期皇帝に就任したフェルディナント三世のもとに、翌一六三八年末、一冊の書物が献上された。
 ヴィルヘルム・ラモルマイーニ著『ローマ皇帝フェルディナント二世の聖徳』がそれである。
 その書では、フェルディナント二世は理想的な信仰生活を送り、カトリックの正統信仰のために尽くすキリスト教君主として描かれている。それだけでなく、中世の皇帝ルドルフ一世以来のオーストリア家の信仰とキリスト教的功績が、視覚的かつ文学的に活写されていた。
――正統なる信仰のために尽くす崇高な家門オーストリア家、か。
 フェルディナント三世は、父の剣に刻み込まれていた銘文を思い出した。
”LEGITIME CERTANTIBUS CORONA” 
『正統性のために戦う者に、王冠は帰す』
 ここでの「正統」は、正統信仰の「正統」”ORTHODOXAM”とは違う。後者は最も正しく継承された教義などを言い、前者は人々が政治権力や権威に認める支配の妥当性を指す。
――父が求めた正統とは、何だったのだろうか。
 神聖ローマ皇帝としての正統性の根拠は、選帝侯により選出されることだ。それは帝国国制における合法性でもある。だが、皇帝が「神聖」なのは、カトリック=キリスト教の護持者であるからだ。フェルディナント二世は正統な(Legitimo)皇帝として、正統な(Orthodoxae)教えを守るべく戦ったが、その過程は必然的に帝国国制に抵触するという矛盾を孕んでいた。それでも、皇帝位の正統性には最後まで拘り、フェルディナント三世は選帝侯の選挙で正統なローマ王=次期皇帝に選出させることに心血を注いだ。
 フェルディナント二世は交錯した二つの正統のために、その生涯を戦いに捧げた。そして帝国の擾乱は未だに収まらない。
――ラモルマイーニ神父の著書は、オーストリア家に新たな正統性を与えることになるだろう。
 皇帝として、否、むしろオーストリア家の領袖として戦い続けるフェルディナント三世は直感していた。
 神学と哲学の博士でもある学識者ラモルマイーニ神父によって整然と理論武装された「オーストリアの敬虔」は、オーストリア家に「神に選ばれ、神に尽くす王家」としてのカリスマを付与する一助となる。それはオーストリア家領の君主としての正統性である。ここにおいて、長い伝統を誇る神聖ローマ帝国の皇帝としての正統性は、そのオーストリア君主国の正統性を荘厳に飾り立てる補助的なものとして機能する。
 フェルディナント二世は、いくつかの領邦からなるドイツのオーストリア家領をほぼ一括して相続させる制度を制定し、世襲領全体の政治を管轄する宰相や顧問会議を設置した。そして今では、オーストリア家の支配する諸領邦全体が、一つの国のように「オーストリア」と呼びならわされるようになっている。
「トラウトマンスドルフを呼べ」
 皇帝フェルディナント三世は、オーストリアの宰相(枢密顧問官主席)を呼ぶように命じた。
「トラウトマンスドルフ、参上いたしました」
「ラモルマイーニ神父の御望み通り、ウィーンの印刷所で『聖徳』を刷るように手配せよ。神父への謝礼などは全て任せた。よきに計らえ」
「畏まりました。これはまさに筆の戦。スウェーデンの宣伝に対抗する強力かつ理性的な一打になりましょう」
 宰相は満足げに言った。スウェーデンは「皇帝は帝国全土の新教徒を抹殺するつもりでいる」「キリスト教の敵オーストリアは、ドイツ全てをオーストリアのものにしようとしている」などというパンフレットを帝国にばら撒き、反皇帝プロパガンダを展開していた。百数十年前に印刷術が爆発的に普及し始めて以来、戦争や政争、さらに宗教の宣伝をするにあたってパンフレットを撒き散らすことは常識になっていた。

 『ローマ皇帝フェルディナント二世の聖徳』は各国語に訳され、各地で出版された。この伝記は「オーストリア家の敬虔」を人々に印象づけ、オーストリア家の王朝神話形成に大きな役割を果たした。
 フェルディナント三世はその著者を宮廷から敬して遠ざけた。神父の政治的影響力を好まなかったのだ。その後、ラモルマイーニは大学教授を経て一般の聴聞師となり宗教者としての務めを果たし、一六四八年にこの世を去った。この年、後世に「三十年戦争」と呼ばれる一連の戦争が終焉を迎えた。

  終、大団円

 ヴェストファーレン条約が締結されて三十年戦争が終わるころには、フェルディナント三世は劣勢に追い込まれており、エルザスを帝国から切り離してフランスに割譲し、北ドイツの西ポンメルン公領などをスウェーデン女王に授与することを余儀なくされた。帝国国制については、皇帝権の制限が明文化され、諸侯の同盟権や領邦支配権も再確認された。宗教問題は諸侯の宗教選択権の再確認と他宗派領民の移住権の保障によって一応の決着を見、フェルディナント二世の帝国再カトリック化の夢は完全に潰えた。
 この条約は後に「ドイツの分裂を決定づけた」として、「神聖ローマ帝国の死亡診断書」などと呼ばれる。皇帝の帝国に対する影響力が減退し、領邦君主権が強化されたことを指してである。しかし、諸侯議会による皇帝権の制限、諸侯の領邦支配は、諸侯が求めていた「ドイツの自由」そのものであり、条約後の新体制は再建された帝国国制であるともいえる。帝国は生きているのだ。
 神聖ローマ帝国は、ドイツ諸侯の緩やかな連合体、法と平和の共同体としてその滅亡(一八〇六年)まで存在し続けた。皇帝は選帝侯によって選出され続けたし、帝国の裁判所も機能し続けた。
 ただ、フランスやスウェーデンなどの権力国家に相当するものは、「神聖ローマ帝国」即ち「ドイツ」ではなく、「オーストリア」「バイエルン」「ブランデンブルク=プロイセン」などの領邦国家だった。
 以後の時代の主役は権力国家となり、神聖ローマ帝国のような国体の「帝国」は、国家とは見なされなくなった。「民族」と合致した権力国家を理想とする近代ナショナリストにとって、外国の勝利によって保障され再建された「ドイツの自由」など、「ドイツの分裂」を決定づける忌むべきものでしかなかった。二代のフェルディナントが形成に貢献したオーストリア国家も、同様である。オーストリア家の君主国は神聖ローマ帝国亡き後も存続、オーストリア家皇帝の正統性は第一次大戦末の革命に至るまで威光を放った。


【思い出せる参考文献や関連文献】

ウェッジウッド『ドイツ三十年戦争』、エヴァンズ『バロックの王国』、エリオット『リシュリューとオリバーレス』、色摩力夫『黄昏のスペイン帝国』、ブレジンスキー『グスタヴ・アドルフの騎兵』『グスタヴ・アドルフの歩兵』、シルレル『三十年戦史』、君塚直隆『近代ヨーロッパ国際政治史』、小山哲ら編著『大学で学ぶ西洋史 近現代』、山内進ら編著『概説 西洋法制史』、山内進『掠奪の法観念史』、鈴木直志『ヨーロッパの傭兵』、ハワード『ヨーロッパ史における戦争』、菊池良生『傭兵の二千年史』『戦うハプスブルク家』。


人物・宗教・称号・国家など

○神聖ローマ帝国 (ドイツ、ボヘミア)
フェルディナント二世(一五七八~一六三七)  カトリック。オーストリア(墺)=ハプスブルク家。
神聖ローマ皇帝。ハンガリー王。ボヘミア王。ドイツの世襲領はオーストリアなど南東部。
フェルディナント三世(一六〇八~一六五七)  カトリック。フェルディナント二世の子で後継者。
ヴァレンシュタイン(一五八三~一六三四)  カトリック。傭兵隊長。皇帝軍総司令官。

マクシミリアン一世(一五七三~一六五一) カトリック。ヴィッテルスバッハ家。バイエルン公。選帝侯。
ティリー(一五五九~一六三二)  カトリック。バイエルン公に仕える傭兵隊長。旧教連盟軍司令官。

ヨハン・ゲオルク一世(一五八五~一六五六)  ルター派。ヴェッティン家。ザクセン公。選帝侯。
アルニム(一五八三~一六四一)  ルター派。傭兵隊長。ザクセン軍司令官。

ゲオルク・ヴィルヘルム(一五九五~一六四〇)  カルヴァン派。ホーエンツォレルン家。
ブランデンブルク辺境伯。選帝侯。プロイセン公。
フリードリヒ・ヴィルヘルム(一六二〇~一六八八) ゲオルク・ヴィルヘルムの後継者。通称、大選帝侯。

○スペイン王国    (西)
フェリペ四世(一六〇五~一六五五)  カトリック。西ハプスブルク家。スペイン王。ポルトガル王。
ナポリ王。ミラノ公。南ネーデルラントや新大陸の植民地も支配。
フェルナンド(一六〇九~一六四一)   枢機卿王子。フェリペ四世の弟。ネーデルラント総督。

○スウェーデン王国  (瑞)
グスタフ二世アドルフ(一五九四~一六三二) ルター派。ヴァーサ家。スウェーデン王。
オクセンシェルナ(一五八五~一六五四)  ルター派。スウェーデン宰相。
ホルン(一五九二~一六五七)       ルター派。スウェーデン軍の将軍。
クリスティーナ(一六二六~一六八九) ルター派(戦後カトリックに改宗)。スウェーデン女王。グスタフ娘。

○フランス王国    (仏)
ルイ十三世(一六〇一~一六四三)  カトリック。ブルボン家。フランス王。
リシュリュー(一五八五~一六四二)  枢機卿。フランス宰相。
ベルンハルト(一六〇四~一六三九)  ルター派。ザクセン=ヴァイマル公。
            フランスと傭兵契約を結ぶ。ハイルブロン連盟軍司令官。

○ポーランド=リトアニア共和国   ※君主を戴く国家だが共和国を名乗る。実質は貴族共和政。
ジグムント三世(一五五六~一六三二) カトリック。ヴァーサ家。ポーランド王。元スウェーデン王。
            スウェーデン王位を奪還することを目指して皇帝の援助を受けグスタフ・アドルフと戦ったが、一六二九年(スウェーデン王のドイツ上陸の前年)に和睦。

略年表

一六一八年 プラハ窓外放擲事件。ボヘミア反乱始まる。
一六一九年 フェルディナント二世、神聖ローマ皇帝に即位。
一六二〇年 ボヘミア反乱鎮圧。残党の傭兵隊は北ドイツで数年戦い続ける。
一六二三年 バイエルン公、選帝侯位を与えられる。
一六二五年 デンマーク王クリスチャン四世、参戦。
一六二八年 ヴァレンシュタイン、北ドイツを席巻。
一六二九年 二月 皇帝、復旧令発布。五月 デンマーク王、撤退(リューベック条約)。
一六三〇年 七月 スウェーデン王、ドイツに上陸。レーゲンスブルク選帝侯会議。
      八月 皇帝、ヴァレンシュタイン罷免。
一六三一年 一月 仏瑞同盟(ベールヴァルデ条約)。四月 ザクセン公ら、ライプチヒ協定を皇帝に送る。
      五月 バイエルン公、フランスと秘密同盟。
      九月 ブライテンフェルトの戦い。十月 ザクセン軍、ボヘミアに侵攻。
一六三二年 四月 レヒ河の戦い。ヴァレンシュタイン、皇帝軍総司令官復帰受諾。
      五月 スウェーデン王、バイエルン西部に侵攻。六月 ザクセン軍、ボヘミアから撤退。
      十一月 リュッツェンの戦い。グスタフ・アドルフ、戦死。
一六三三年 四月 仏瑞と新教諸侯、ハイルブロン連盟結成。
一六三四年 二月 ヴァレンシュタイン暗殺。
      四月 フェルディナント三世、皇帝軍総司令官就任。九月 ネルトリンゲンの戦い。
一六三五年 二月 蘭仏同盟。ザクセン公、皇帝軍と休戦。四月 仏瑞同盟更新(コンピエーニュ条約)。
      五月 西仏戦争開始。プラハ条約で皇帝とザクセン公和睦。後に殆どの帝国諸侯が署名。
一六三六年 春 ザクセン公とブランデンブルク辺境伯、スウェーデンに宣戦布告。
      三月 皇帝、フランスに宣戦。十月 ヴィットストックの戦い。
      十二月 フェルディナント三世、ローマ王に選出される。
一六三七年 二月 フェルディナント二世、死去。フェルディナント三世、皇帝に。
一六三九年 七月 在独フランス軍司令官ベルンハルト、死去。
一六四〇年 十二月 フリードリヒ・ヴィルヘルム、ブランデンブルク辺境伯に。ポルトガルで対西反乱。
一六四一年 九月 ブランデンブルク辺境伯、スウェーデンとの敵対関係休止を宣言。
一六四三年 五月 ルイ十三世、死去。ルイ十四世、仏王に。仏軍によって西軍壊滅(ロクロワの戦い)。
      九月 瑞軍、デンマークを攻撃してトルステンソン戦争開始(~四五)。
一六四四年 六月 ブランデンブルク辺境伯、スウェーデンと正式に和睦。
      十二月 ヴェストファーレン会議開始。
一六四五年 二月 皇帝・バイエルン連合軍、瑞軍に大敗(ヤンカウの戦い)。皇帝、プラハから逃亡。
      七月 瑞軍、ボヘミアから撤退。仏軍、ドナウ河進出。八月 ザクセン公、瑞と和睦。
一六四七年 三月 バイエルン公、瑞軍と休戦(瑞軍は侵攻を続ける)
一六四八年 七月 瑞軍、プラハを包囲。八月 フランスに侵攻した皇帝・スペイン連合軍、潰滅。
      十月 三十年戦争終結(ヴェストファーレン条約)。
一六五九年 十一月 西仏戦争終結(ピレネー条約。フランス勝利)。