三十年戦争 400年企画

二つの正統と国家理性(上)

  序、大前提

 時は十七世紀はじめ。ローマ教皇を頂点に戴く盤石のカトリック教会にルターが異議を唱えてから百年が経っていた。現れては消える従来の異端とは異なり、ルターやカルヴァンの信仰は燎原の火の如く西欧を席巻、各地で新旧のキリスト教を巡って激しい争いが繰り広げられた。ドイツでは一五五五年に宗教和議が結ばれたが、争いの火種が消えることはなかった。
 近世のドイツ神聖ローマ帝国には、大小三百余りの諸侯が割拠していた。諸侯には領邦の統治とカトリックかルター派かの宗教選択の自由、そして帝国議会への参加が保障されている。七人の選帝侯によって選出される神聖ローマ皇帝は、諸侯の統治や宗教に容喙せず、帝国国制の護持者として君臨することを望まれていた。
 一六一八年、帝国を構成する領邦の一つであるボヘミア王国(チェコ)で反乱が起こった。カトリック教徒のボヘミア王が、新教徒が多いボヘミアで新教徒を迫害する政策を取ったことが原因である。ボヘミア王フェルディナント二世は、オーストリアなど東南ドイツやハンガリーの君主も兼ねる大諸侯であり、翌年には神聖ローマ皇帝に選出される。
皇帝フェルディナント二世は武力で反乱を鎮圧した。その後数年、帝国北部で暴れる敵の残党を掃滅し、デンマーク王の武力介入を退ける一連の過程で、皇帝の武威は限りなく上昇した。皇帝は強力な軍事力を背景に帝国国制を犯す動きを見せ、帝国規模で再カトリック化を図る勅令をも発する。選帝侯たちは、帝国国制に保障された権利――「ドイツの自由」と呼ばれる――を守るため、皇帝の嫡男のローマ王(事実上の皇太子)選出を保障しないという手で皇帝の専制に抵抗した。そんな中、北方から外国の王が軍勢を率いてドイツに乱入する。

  一、スウェーデン王の上陸

 一六三〇年七月、スウェーデン軍がドイツ最北東のポンメルン公領ウゼドムに上陸した。その先頭を切ったのは国王グスタフ二世アドルフその人である。スウェーデン王は地に足を触れるや否や跪き、神に渡海の成功に感謝し、征旅での御加護を祈った。
 ポンメルン公ボギスラフ十四世の元に、スウェーデン王からの脅迫の使者が訪れたのは王の上陸後すぐである。
「我が王は貴殿と戦うのでも、ドイツ人と戦うのでもない。ましてや貴殿らの信仰を蔑ろにするために戦うのでもない。それらの敵、つまり皇帝と戦うのである。そのために、貴殿の所領の占領を許可されたい」
 無愛想な金髪碧眼の男は言った。有無を言わせぬ命令口調だ。皇帝にもここまで無礼な口をきかれたことはない、とポンメルン公は思った。だが、それよりも彼を驚かせたのは、北狄の使者が着用している色鮮やかで整然とした軍服だった。
――これが同じ軍人なのか。
 ポンメルン公は皇帝軍の乱暴な傭兵隊を思い起こした。その服装はと言えば、派手で趣味の悪い飾りのついた服か、あちこちが擦り切れた襤褸一歩手前の粗衣かどちらかであった。
「ここは貴殿の土地であるにも関わらず、駐屯する皇帝軍の兵隊が我が物顔に闊歩し、貴殿の民を虐待していると聞く。スウェーデン王の軍は貴殿が敵にならぬ限り、そのような真似はせぬ。フェルディナントにつくか、グスタフ・アドルフにつくか。決めるのは貴殿だ」
 乱暴なのは物の言い方だけで、態度自体は礼儀正しい。このような軍人が存在するというだけで、この突然の侵略軍は信頼できる人間の集まりであるかのように思えた。そして使者の語った内容も魅力的なものだった。皇帝の傭兵隊に悩む必要がなくなるのなら、それに越したことはない。
「貴殿の国王に伝えられたい。私はスウェーデン軍を歓迎する、と」

 ポンメルン公領の首都シュテティーンにスウェーデン軍が進駐してきた。聯隊ごとに軍服の色が統一された将兵は、整然と歩いてくる。
 ポンメルン公はスウェーデン王に会った。当年三十六のグスタフ・アドルフは金髪を短く刈り込んだ精悍な武人で、流暢なドイツ語を話した。スウェーデン王が語る内容は使者のそれと同じ趣旨だった。新教と「自由」の抑圧者、専制皇帝からドイツを解放するため戦う、と。王の信念が臣と共有されているに違いない。皇帝の叱責を受けても乱暴狼藉をやめない皇帝軍とは大きな違いだった。
――スウェーデン人は「遠い国」から来た人間なのだ。
 ポンメルン公は侵略者を派遣してくれた神に感謝した。
 ちなみに、彼はスウェーデン軍の駐留を受け入れると同時に「やむを得なかったのです」と皇帝に詫びを入れていた。それでも皇帝の勘気を蒙ったので、以後ポンメルン公は堂々とスウェーデン軍に協力することが出来るようになる。
 スウェーデン軍はポンメルン公領に散在していた皇帝軍を着実に駆逐していった。ドイツの新教信仰の擁護を大儀に掲げつつ――スウェーデン王は割と本気でその使命も信じていたが――、実際のスウェーデンの戦争目的はバルト海の覇権確立、強大な皇帝軍に対する予防戦争、そしてスウェーデン王位を覬覦するポーランド王ジグムント三世を援助してきた皇帝の膺懲だった。
 一六三一年一月、スウェーデン王はフランスと同盟を締結した(ベールヴァルデ条約)。フランスはスウェーデンに資金援助をすること、両国は、五年間単独講和を結ばないこと、スウェーデン王はドイツ人のカトリック信仰を保障することなどが取り決められた。本格的な軍事同盟である。フランスはカトリック国だが、ドイツの皇帝とその一門の力を弱めるべく、新教国スウェーデンと手を結ぶことを厭わなかった。

  二、ブライテンフェルトの会戦

 スウェーデン王上陸によって、北東ドイツの二人の選帝侯は去就を迫られた。ポンメルン公領の南隣のブランデンブルク辺境伯ゲオルク・ヴィルヘルム、さらにその南隣を治めるザクセン公ヨハン・ゲオルク一世の両者である。ともに新教を信じる諸侯であり、皇帝のカトリック化政策と専制には恐れを懐いているが、外国王の軍勢にドイツが蹂躙されることを望みはしない。
 ザクセン公の主導で二人は会合を持ち、皇帝が「復旧令」を撤回すれば皇帝に協力してスウェーデン王に対して武器を取るという声明を発した。ライプチヒ協定と呼ばれるこの声明には、中小の新教諸侯も名を連ねた。
 「復旧令」とは一六二九年に皇帝が出した勅令で、新教諸侯が一五五二年以降に接収したカトリック教会領を元の持ち主に返還せよという命令である。その内容が実現すれば、帝国の新教諸侯は所領を大きく削られることになる。帝国の現状・秩序を根底から覆すこの勅令は皇帝による専制の意図の象徴であり、カトリック諸侯さえも懸念を示していたものだ。
 両選帝侯らにライプチヒ協定を突きつけられた皇帝は、要求を拒否した上で、新教諸侯の募兵に応じてはならないと帝国の全臣下に告知した。外敵排除に無条件で協力しない時点で、皇帝にとって新教諸侯は敵も同然だったのである。
 絶望的な回答を突き付けられた上にスウェーデン王の軍勢の脅威が迫ったことで、二人の選帝侯は旗幟を鮮明にした。一六三一年六月にブランデンブルク辺境伯が、九月十一日にザクセン公がスウェーデン王と同盟を締結する。皇帝軍を率いるティリー将軍はザクセン公の決断に激怒、ザクセンの自由都市ライプチヒを占領した。スウェーデン・ザクセン連合軍と皇帝軍との決戦は間近に迫っていた。

――なぜ、余がスウェーデン王のもとに馳せ参じねばならぬ。
 ザクセン公ヨハン・ゲオルクは忸怩たる思いを抱えながらスウェーデン王の陣所へ向かっていた。
 ヨハン・ゲオルクは即位以来、帝国国制の護持に尽力してきた。かつてのボヘミア反乱で、ルター派のザクセン公はカトリックの皇帝フェルディナント二世を迷わず支援した。彼の言葉でいうと、「自らの王朝の軍事力だけでボヘミア王位を奪い返したフェルディナントよりも、我々プロテスタントの助けによって正統なボヘミア王位に復し、我々ドイツ諸侯の忠誠によって皇帝の威厳を保つフェルディナントの方が千倍くらいは安全」という理由からである。
 代々ザクセン公を務めるヴェッティン家はとりわけ皇帝への忠誠心に厚く、「よき国制を守る、よき皇帝」を希求する心情が強い。フェルディナント二世は国制を蹂躙する「悪しき皇帝」かもしれないが、それでも皇帝に公然と敵対し、皇帝の敵であるスウェーデン王とともに戦うことには抵抗があった。が、新教諸侯を糾合して第三勢力を形成し、皇帝に改心を迫る企てが失敗に終わった今、スウェーデン王につくしか手はない。
「中央右の歩兵は……。お、ザクセン公、来られたか!」
 ザクセン公がスウェーデン王の本陣についたとき、グスタフ・アドルフは軍議を取り仕切っていた。
「ザクセン公にして選帝侯、ヨハン・ゲオルク、遅ればせながら参上いたしました。このたびは……」
「ヨハン・ゲオルク殿、申し訳ないが細かい挨拶は陣立ての後だ。貴殿の軍勢の配置も沙汰いたすゆえ、聞き漏らしのないように」
「……はっ!」
 四十六歳のヨハン・ゲオルクは自分より一回り若い男に無下に扱われたことに腹を立てる暇もなく、スウェーデン王の小姓が用意した床几に座らされた。
「中央の歩兵はホルン、最右翼の騎兵はバナーが適任か。任せたぞ」
「はっ!」
 スウェーデン軍の将軍二人が威勢よく答えた。スウェーデン王は次々と命令を発し、さらに火薬の管理など細部の注意も要領よく伝え、麾下の諸将は即座に従った。
――これがスウェーデン式か。
 ザクセン公は感心した。主君の命令一下、家臣は絶対服従。神聖ローマ帝国式――諸侯会議または選帝侯会議で長々と話した末に出た結論を皇帝に上奏し、皇帝が認可して、その執行は諸侯たちに任される(そして必ずしも実行されるかは分からない)――に慣れたザクセン公の目に、その光景は奇異に映った。
――もしや皇帝フェルディナントが目指しているのは、これなのか。
 ザクセン公は身震いした。皇帝が主体として命令し、諸侯はただ従うのみ。そのようなドイツ、「ドイツの自由」が失われたドイツなど、想像するもおぞましい。が、この「スウェーデン式」化の流れは、ザクセン公などの有力諸侯の領邦においても無縁ではない現象であった。諸侯の領邦にも身分制議会は存在し、領邦君主はそれを自らの意向に従わしめんと(程度に差こそあれ)躍起になっているのである。

 九月十八日午前九時ごろ、両軍は対峙した。
 皇帝軍は丘陵上に陣を敷いた。中央の歩兵をティリーが指揮し、左右両翼に騎兵を配置した。皇帝軍の歩兵はテルシオ戦闘隊形を取った。テルシオとは、方形に配置した槍兵の周りを銃兵で囲う密集隊形であり、一つにつき約千~三千人で構成される。
 連合軍は、左翼にヨハン・ゲオルクが自ら指揮するザクセン騎兵、中央左にザクセン歩兵、中央右にスウェーデン軍歩兵、右翼にスウェーデン王率いる歩騎兵連合部隊が陣を取った。スウェーデン王率いる部隊は、密集させた歩兵と騎兵の無数の小部隊をチェスの目のように配置した独特な陣形を取っている。
 皇帝軍は三万三千。対するスウェーデン軍二万三千、ザクセン軍は一万七千。
 まず皇帝軍左翼の騎兵が動いた。スウェーデン軍右翼を襲撃するも激しい砲火に曝される。皇帝軍はその射撃の速さと正確さに驚いた。スウェーデン王自慢の、軽カノン砲である。激しい衝突の隙を見て、皇帝軍左翼の別働隊が大きく迂回してスウェーデン軍中央を背後から攻めたてた。
 しかし、スウェーデン王は右翼の騎兵だけを引き抜いて急行させ、別働隊を挟撃した。裏をかいたつもりが逆の結果になった敵別働隊はなんとか自陣に退却した。スウェーデン王のチェス盤陣形は機動性に特化した新陣形だったのである。
 皇帝軍歩兵はまっすぐ進軍したが、スウェーデン軍の銃撃の激しさに辟易して矛先をザクセン軍に向けた。テルシオ部隊は機動性には欠けるが守りは堅く、その重厚さは敵を易々と揉みつぶす。
 徐々に迫ってくるテルシオにザクセン軍はやたらめったら撃ちまくるが、その甲斐もなく、遂に恐れをなした砲手が逃亡を始めた。テルシオ部隊はザクセン騎兵の前にも現れ、弧を描くように歩を進める。幾千の男たちが整然と大地を踏みならす響きが徐々に迫ってきた。さらに敵右翼の軽快な馬蹄の音までも聞こえてくる。
――これはまずい。
 ザクセン公は勝つ自信を失った。鉄壁のテルシオ、そして百戦錬磨の敵将ティリーへの恐怖は、ザクセン公に決断を迫った。
「一時、退却!」
 ザクセン公は率先垂範、一目散に馬を駆った。ザクセン軍は歩騎兵ともに大多数が戦場を落ち延び、十キロ先の地点まで逃げた。
 ザクセン公の離脱後、ザクセン軍司令官アルニムが残兵を纏めて戦った。スウェーデン王は彼らを助けるために援軍を派遣、敵の騎兵と歩兵を分断して騎兵を追い散らした。その間にザクセン軍の大砲を奪い返し、さらにスウェーデン軍右翼は敵左翼を追い散らして丘陵を駆け上り、敵軍の大砲も制圧した。皇帝軍のテルシオは敵味方の砲陣地から砲撃を浴びて壊滅し、さしものティリーも戦場から逃げ延びた。ブライテンフェルトの会戦は連合軍の圧勝に終わった。スウェーデン軍の、と言った方が正しいかもしれない。

 青地に金のスカンディナビア・クロスの大旌旗が、夜営の篝火に照らされて誇らしげに翻っている。
――スウェーデン王に合わせる顔がない。
 会戦後、ザクセン公はスウェーデン王の本陣に向かった。
「敵は壊滅、我が方大勝。重畳至極。さあ、御一献」
 スウェーデン王はザクセン公の逃亡を咎めるでもなく、勝利の美酒を勧めた。スウェーデン王の服は文字通り戦塵に塗れている。噂に聞く通り、勇敢なスウェーデン王は戦場のあちこちへと馬を飛ばして督戦していたのだろう。
――さすが北方の獅子! これは本物の英雄だ。それに比べて……。
 ザクセン公は我が身を恥じた。彼は今や侵略者の馬の口を取ってその偉大さに驚嘆するしかないのだ。
「ヨハン・ゲオルク殿、今後の動きだが」とスウェーデン王は酒を注ぎながら言った。「余がオーストリア家領を攻め、貴殿はドイツ中央に睨みを利かせることにしていたが、逆にしよう」
 ザクセン公は軍事においてスウェーデン王の信頼を失ったことを悟った。たといスウェーデン王がウィーンを落しても、その隙にザクセン公が皇帝軍に降伏してしまっては、スウェーデン王は敵奥地で孤立し、全てが無駄になる。
「承知しました。ウィーンを陛下の手土産にして差し上げましょう」
 ザクセン公はお茶を濁した。ドイツの中部をスウェーデン王が押さえたなら、ザクセン公がボヘミアやオーストリアの攻略に失敗しても致命傷にはならないのだ。
「一つ、後学のためにお聞きしたいのですが」と、ザクセン公は問いかけた。「スウェーデン軍の整然とした動きには感服しました。一体、いかにすればあのような軍隊が出来上がるのでしょうか」
「領民から徴発するのだ」
 スウェーデン王は得意げに語った。それによると、籤引きで村ごとに数人兵役を割り当てて訓練を施すという。当然、それだけでは兵力が足りないので傭兵も用いることになるが、戦場の無法地帯で叩き上げられるドイツ君侯の傭兵とは違い、規律と訓練を本国で叩き込んでから出征せしめるという。
「無辜の民に、剰え味方の民にさえ乱暴を働く兵隊など余はいらぬ。正義のため、神のために戦ってこその軍人だ。その崇高な務めへの献身! 余はそれを将兵に徹底しているだけだ」
「卓越せる陛下の信念が下々に行き渡っているのですな。さすれば、陛下の軍隊は崇高な軍隊として勝利し、崇高な軍隊として本国に凱旋されるに違いありませんね!」
 ザクセン公の、渾身の皮肉である。
 このままスウェーデン軍が勝ち続けてドイツの奥地へ進撃するころには、本国で招集したスウェーデン軍のままでは兵力がとても持たない。現地で傭兵を徴募するしかなくなるが、そうなればスウェーデン軍の規律が一気に乱れることは間違いない。スウェーデン軍が「崇高な軍隊として本国に凱旋する」ということは、スウェーデン軍が速やかにドイツから撤退しない限り、ありえないことなのである。
「正義のために戦う軍隊は強い。かつてスウェーデン人の祖ゴート族は世界を席巻し、ローマ皇帝の悪しき支配に懲罰を加えた。その末裔である余は、正しき軍隊を従えて皇帝を打ち負かし、ドイツに平和と信仰を取り戻す。ザクセン公、余のよき軍人としての働きを期待するぞ」
 ザクセン公はスウェーデン王の思い上がりに絶句した。
――余はスウェーデン王に従うし、皇帝軍とも戦う。しかし、その目的は「ドイツの自由」の回復だ。「スウェーデンの専制」ではない。ゴート族云々の与太話など真に受けるか!
 屈従したように見せかけても、ザクセン公はまだ自分のビジョンを捨てていなかった。
――余がスウェーデン王に軍の指揮権を任せたのは「緊急事態が続く限り」なのだから。
 ザクセン公がスウェーデン王と締結した同盟には、「緊急事態が続く限り」指揮権をスウェーデン王に委ねる、という条件がある。「緊急事態」が終われば――つまり、ザクセン公が都合よく終わらせれば、行動の自由は確保できる建前である。全面服従に見せかけて、ヨハン・ゲオルクは帝国平和回復の望みを手元に残していたのである。

 十月から、スウェーデン軍は本格的な征服に乗り出した。西に方向を変えてライン河畔の「坊主街道」を南進し、マインツ大司教領を侵した。ちなみに「坊主街道」の通り名は、聖界領主の所領が集中していることに由来する。
 ザクセン軍はオーストリア家領のボヘミアに侵入し、十一月十五日にはザクセン選帝侯の名においてボヘミアの首都プラハを占領した。ごく少数存在した隠れ新教徒は街頭に現れてザクセン軍に喝采を送った。
 プラハを落され、ウィーンまでも危うくなった。ウィーンでは霧雨の中、懺悔の巡礼行列が行われた。粗衣を纏い蝋燭を捧げ持った皇帝フェルディナント二世を先頭に、この集団は裸足で市街を練り歩いて神の許しを乞うた。

  三、バイエルン公の逡巡

 ブライテンフェルトの戦いでグスタフ・アドルフに惨敗した皇帝軍の将ティリーの主人は、皇帝ではなくバイエルン公である。
 カトリックを信奉するバイエルン公マクシミリアン一世は南ドイツの有力諸侯であり、その領邦の西以外の三方はフェルディナント二世の所領と接している。つまりバイエルンは、宗教的にも地理的にも皇帝の藩屏であり、スウェーデン王の進撃に曝される可能性が高いのである。当初、スウェーデン軍は「雪だるまのように、南に来ると溶ける」と揶揄されていたが、今では「雪だるまのように」大きくなって南に転がってきていた。
 現在、バイエルン公ほど複雑な立場にいる君侯はドイツに存在しない。彼は一六三一年五月にフランスと秘密同盟を締結していた。この条約によって、バイエルンが「フランスの敵」を援助しない代わりに、フランスはバイエルン公の選帝侯位を認め、バイエルンを援助する義務を負った。フランスは別にスウェーデンと同盟を締結しており、そこでは「スウェーデン軍はバイエルンを攻撃しない」と定められている。が、バイエルン公に仕える将軍ティリーはスウェーデン軍と戦って敗れ、スウェーデン軍はバイエルンの近くまで進んでいる。
――儂は陰謀を好みすぎた。
 還暦に近い老公マクシミリアンは「ドイツの最も有能な君侯で無限の才略に恵まれ、辛抱強く計算高い」と評された智謀の人で、バイエルンでは公共事業を積極的に行い、領邦議会の承認を必要としない集権的租税体制を整えて領邦の富国化に務めてきた。敬虔なカトリック教徒として智略の限りを尽くしてバイエルンの再カトリック化政策に邁進する一方で、外交政策は合理的・現実的だった。
 十七世紀の初めには、プファルツ選帝侯が盟主を務めるプロテスタント諸侯同盟に対抗してカトリック諸侯連盟を結成し、皇帝・新教同盟・旧教連盟の三者の勢力均衡によって帝国平和と帝国国制の維持を目指した。
 ボヘミア反乱でプファルツ選帝侯が担ぎ上げられると、バイエルン公は旧教連盟軍――その司令官はティリーである――を皇帝に差し出して反乱征伐に協力する見返りに、プファルツ選帝侯の選帝侯位と所領の一部をもらうという密約を交わした。バイエルン公は皇帝から選帝侯位を与えられるが、それに対して諸侯たちは非難の声を挙げた。「諸侯に諮らずに、皇帝が選帝侯位を恣意的に剥奪・授与する権利はない」「帝国国制違反であり、『ドイツの自由』の侵害である」と。
 マクシミリアンは己の国制護持計画が破綻したと見るや、「ドイツの自由」よりも「バイエルンの利益」を優先した。バイエルン公は帝国では孤立しかけていたが、フランス王やローマ教皇など、国外の有力カトリック勢力の支援を受けていた。彼らは皇帝の一門による権力独占を望まないため、マクシミリアンを応援することで皇帝を牽制しようとしたのだ。バイエルン公は彼らの力を利用し、バイエルンの国益伸長を図ったのである。
――儂は誰よりも賢く立ち回ったはずだ。だが現在、そのつけが全て回ってきたのだ。
一六二〇年代後半の皇帝と敵対勢力の戦いで、皇帝方の主力となったのはバイエルン公に仕えるティリーと、皇帝に仕える傭兵隊長ヴァレンシュタインである。常勝将軍ヴァレンシュタインは合戦の名手であるのみならず、軍隊経営の天才でもあった。彼は皇帝から占領地・宿営地での軍税徴収権を与えられて、強大な傭兵軍団を組織した。皇帝の敵が全て撃退されたころには、その軍勢は諸侯たちにとって脅威となっていた。皇帝がその軍事力によって国制を破壊し専制支配を企てないとも限らない。バイエルン公にとっても、ヴァレンシュタインのせいでティリーの軍勢の影が薄くなり、自らの影響力が低下することは望ましいことではない。バイエルン公ら選帝侯は皇帝にヴァレンシュタインの皇帝軍総司令官罷免を迫り、一六三〇年八月に皇帝はその要求を受け入れた。皇帝にとっても、ヴァレンシュタインの強大な軍事力は不気味なものだったのだ。それ以後、バイエルン公の懐刀ティリーが帝国最大の軍事力を担うことになる。
 バイエルン公の思惑通りに事が進んでいるように見えたが、ここ二年のマクシミリアンの政策は全て裏目に出た。
 ヴァレンシュタイン無き後のティリー率いる皇帝軍はスウェーデン軍に連戦連敗し、フランスとの同盟により「味方の味方」となったはずのスウェーデン軍がバイエルンに近づいてくる。一六三二年三月にアウクスブルクを攻撃目標にすると宣言したスウェーデン王は、バイエルンと目と鼻の先まで迫っていた。
 バイエルンがスウェーデン軍の攻撃に曝されないためには、マクシミリアンがバイエルンの厳正中立を宣言し、ティリーの敗残兵のバイエルン立ち入りを拒否する以外に手はない。「ティリーは皇帝軍の司令官として戦っているのであって、バイエルンとは関係がない」と言い逃れを図るのである。
――そのような行いをすれば未来永劫、卑劣漢として非難を浴びるだろう。保身のために忠実な臣下を裏切った上にカトリックを見捨てたならば、キリスト教君主などと名乗ることが許されるはずがない。
 バイエルン公は結論を出す代わりに、恥も外聞も捨てて、皇帝にヴァレンシュタインを復帰させるように懇願する書状を出した。皇帝はバイエルン公に頼まれるまでもなくヴァレンシュタインに復帰を要請していたが、ヴァレンシュタインは返答を引きのばしていた。

  四、レヒ河の戦い

 バイエルン公はスウェーデン軍の恐怖にも良心の呵責にも負けた。
 一六三二年四月一日、バイエルン公はティリー軍をバイエルンのインゴルシュタットに集合させ、自らも軍に加わった。憔悴しきったティリーは連続の敗戦をバイエルン公に詫びた。マクシミリアンは、七十を超える老将の忠節に感涙を禁じえなかった。
スウェーデン王はバイエルン公の動きを明白な敵対行為とみなした。四月十五日、スウェーデン軍とバイエルン軍はドナウ河の支流レヒ河で衝突する。
 スウェーデン軍は高い河岸から百以上の大砲で対岸のバイエルン軍に砲撃を浴びせかけた。バイエルン軍も負けじと撃ち返すが、高所から火を吹くスウェーデン軍の砲兵に対して不利は否めない。濛々と立ち込める煙硝の下、スウェーデン軍の決死隊・フィンランド兵三百が船橋を渡って渡河を敢行した。フィンランド兵が煙の下で土塁を作っている間にスウェーデン軍は次々と河を渡った。
「申し上げます! ティリー閣下、砲撃を受けて足を負傷!」
 伝令がバイエルン公の本陣に駆け込んだ。
「なんと……」
 バイエルン公は絶句した。序盤に司令官が戦闘不能に陥るとは運がなさすぎる。
「ならば代わる指揮官は副官のアルドリンガーが」
「申し上げます! アルドリンガー殿、頭を砕かれて意識不明!」
「おお、神よ!」
 悲報は次々と舞い込んだ。高級将校が次々と負傷し、スウェーデン軍の本隊が渡河を成功させつつある、と。
「殿下、いかがなさりますか。この陣地に拠ってもう少し戦うこともできなくはありません」
「敵の騎兵は」
「まだ河の向こうにいるようです」
「ならば、速やかに全軍撤退だ!」
 バイエルン公は退却を決意した。
戦いはスウェーデン軍の圧勝に終わり、戦場にはバイエルン軍が捨て置いた行李や大砲が大量に残された。騎兵が登場する前に撤退したことでバイエルン軍の犠牲が抑えられたのはまだ救いだった。
勝ち誇ったスウェーデン王はこう叫んだという。
「余がバイエルン人ならば、砲弾に顎を奪われようとも、国を敵に明け渡さないであろう!」

重傷を負ったティリーは戦闘の二週間後に命を失った。最期の言葉は、このようなものだった。
「レーゲンスブルク!」
帝国防衛のための重要拠点の名である。「甲冑を着た修道士」とあだ名された信心深いティリーが、最期に気をかけたのは神や来世ではなく自己の職務だった。
――許せ、ティリー。神よ、罪深き我を許し給え!
 マクシミリアンはバイエルンの利益を第一に考えてきたが、カトリック信仰も重視してきたし、それらを保障するのは帝国国制であるとも考えてきた。それらが相反した場合、バイエルンにとって都合の良い形で妥協する道を探してきた。彼の政策が数多くの矛盾を孕んでいたのもそれが原因である。
――ドイツ一の知恵者を自認して策謀に励んだ結果がこの様だ。
 バイエルン公は、かの幼馴染のような、一つの信念を無邪気に信奉して疑わず、一途に生きられる人間は浅ましく可哀想な生き物だと思っていた。
――もしかしたら、儂の方が憐れな者なのかもしれない。
 その幼馴染は現在、ドイツの最高君主の座に座っている。
言うまでもなく、皇帝フェルディナント二世のことである。
マクシミリアンの五歳年下で現在五十四歳のフェルディナントは少年時代にバイエルンのインゴルシュタットに預けられて、マクシミリアンとともにイエズス会士から教育を受けた。イエズス会は教育や宣教に熱心に取り組むカトリックの巨大修道会であり、対抗宗教改革の尖兵を務める存在である。その教育によってマクシミリアンは敬虔なカトリック教徒に育ったが、フェルディナントはそれ以上に熱烈な信者となってイエズス会士を感激させた。
マクシミリアンの知るフェルディナントは、狩猟を好み、気さくで快活な好青年だった。傷ついた小鳥にも心を痛めるような人物であり、貧しき者に向ける慈愛の深さは真のキリスト教君主と評されるに足るものであった。
――ただし、彼は危険すぎる。
皇帝は慈愛と信仰、彼の信じる道義を無限に下に及ぼそうとする傾向にあった。実際、彼が成年に達して領主になると、新教に侵食されていた世襲領で強引に再カトリック化政策を推進、新教徒の抑圧にかなりの程度成功し人々を驚かせた。領主が自らの支配民に信仰を強制することは国制上合法である。しかし、フェルディナントがそのときに示した姿勢や信念を帝国でも貫こうとした結果が「復旧令」であり、スウェーデン軍の侵入と新たな戦争を齎した。
――それでもフェルディナントは天命我にありと信じて疑っていないに違いない。あの皇帝から信念と信仰を奪うことなど誰にもできないのだから。
フェルディナント二世は人生で何度も危機に陥ったが、その都度、智略と言うよりは頑迷な信念によって切り抜けてきた。普通の人物ならば途中で大幅な妥協をして戦うことを放棄するときも、フェルディナントは信仰に基づく強情さと時折示す明敏な頭脳の切れによって、少なくとも現在までは己の玉座を守り通してきた。
信仰こそが、皇帝の無限の原動力だった。皇帝とて世俗領主でもあり、王朝利益を追求するが、彼は己が神に選ばれた王朝君主であることを信じて疑わないため、信仰を貫き通す勢いでオーストリア家のエゴも貫徹している。
それに対して、賢く立ち回ってバイエルンの利益を第一に追求して失敗したマクシミリアンには、もはや拠り所にすべきものがなかった。
五月からスウェーデン軍は本格的にバイエルン侵攻を開始した。マクシミリアンは重要文書と財宝を手にミュンヘンを放棄、オーストリア家領とバイエルン領の境の都市ザルツブルクに逃亡した。バイエルン公が繁栄のために尽力したバイエルンの西部はスウェーデン軍に荒らされた。このころには、スウェーデン軍の多くを現地徴募の傭兵隊が占めるようになり、かつての鉄の規律は無きに等しいものとなっていた。
頼みのフランスはスウェーデン王にバイエルン公の中立を許可するように願ったが、グスタフ・アドルフは、バイエルン公が中立を求めるならば、まず武器を置くべきだと激昂した。
神には見放され、自らの卓越した才覚さえもあてにならないことは結果によって証明された。
――バイエルンを回復するために出来ることは、筋を曲げてヴァレンシュタインに救援要請の書状を送ることくらいだ。
かくして、長年ドイツにおいて強い影響力を誇ってきたバイエルンの名君は、皇帝の軍事力に従属し続けて以後の戦争を戦うことになる。

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