三十年戦争 400年企画

三十年戦争・女傑列伝

三十年戦争・女傑列伝(ことよ)

Sebastiaan Vrancx - Soldaten ueberfallen ein Fuhrwerk mit Reisenden

ヴランクス/「旅人に追いはぎする兵士」

三十年戦争は「戦争」なので、主役は男性がほとんどです。女性は――もちろん「クラーシェ」や「肝っ玉おっ母」のような従軍商人や売春宿の女将としてしたたかに生きる強者もいますが――基本的に非常に生きにくい時代だったといえます。冒頭に挙げたヴランクスの絵画のように、金持ちの奥方でも、常に身ぐるみ剥がされる(だけで済めばマシなほう)危険性と隣り合わせです。

Honthorst Elisabeth Stuart

悲劇のヒロインとしては、プファルツ選帝侯フリードリヒ五世妃(ボヘミア王妃)エリザベス・ステュアートが筆頭でしょう。領地を追われて亡命、というのは、敗れた側のステレオタイプです。性別に関わらず、自領からの亡命を強いられた貴族は山ほどいます。

そんな中にあって、この時代を自分たちの意志や利益のために戦った女性たちを何人かご紹介します。夫が亡くなり未亡人となってから(=他力本願がムリになってから)の活躍が多いです。「女の武器」に頼らなかったことも共通しています。もっとも、王族あるいは高位の貴族が多いので、権力や発言力の要素ももちろんあります。

生まれ順です。

南ネーデルランド執政イザベラ・クララ・エウヘニア

Infantin Isabella Clara Eugenia, 1599

1566/8/12-1633/12/1

オーストリア大公アルプレヒト七世(神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世の五男)妃。スペイン国王フェリペ二世の長女。

父王存命中はその政務を助け、対フランス政策など外交上の役割を演じました。1601年より、夫のアルプレヒトとともに南ネーデルランドの共同統治者を務めます。2人のどちらかが亡くなり、その時点で跡継ぎとなる子がなかった場合、統治権はスペイン本国に戻ることとされましたが、夫アルプレヒトと弟フェリペ三世が同年に相次いで亡くなったため、1621年以降は単独で執政を務めることになりました。

"Isabella Clara Eugenia" - Anthonis van Dyck 086

夫のアルプレヒト七世が亡くなってからは、修道女となります。修道院に入るわけではなく、この姿で執政を続けているので、日本でいう落飾と似ています。

オランダとの12年間の休戦中に南ネーデルランドの復興を進めた実績から、休戦終了後は一貫して和平を志向しました。しかし、夫と弟フェリペ三世が休戦終了とほぼ同時に亡くなり、本国の甥フェリペ四世とオリバーレス公伯爵は戦争推進に舵を切ります。

しかしイザベラの考える和平は、時代錯誤で一方的なもので、オランダ側から顧みられないばかりではなく、南ネーデルランドの貴族たちの反感も買いました。南北でいがみ合っていた南ネーデルランドの貴族たちは、それぞれオランダとフランスに南ネーデルランドを売り渡そうとまでしました(南ネーデルランド分割構想)。

また、彼女は、陸のスペイン街道と海のスペイン街道を結ぶ運河を建設する、という大規模な土木工事を企画します(フォッサ・エウヘニアーナ)。ライン川・マース川・スヘルデ川をつなぐこの計画は、資金難と上記の国内貴族の離反等により半分で頓挫したものの、ちょうど中間地点であるマース川までは完成しています。

スペイン本国が斜陽を迎え徐々に衰退していく中、執政府内に不穏分子を抱えながらも、夫亡き後の執政府を12年間守り切ったといえます。彼女の死後、南ネーデルランド執政は1年の代官による統治を経て、甥の枢機卿王子フェルナンドに継承されます。

ゾフィー・ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル

Sophia Hedwig van Brunswijk-Wolfenbuttel met kinderen

1592/2/20-1642/1/23

ナッサウ・ディーツ伯エルンスト・カシミール妃。ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公ハインリヒ・ユリウスの次女。母エリザベト(デンマーク国王フレゼリク二世の長女)を通じて、デンマーク国王クリスチャン四世は叔父、イングランド国王チャールズ一世とその妹でボヘミア王妃エリザベス・ステュアートは従弟妹。お騒がせ傭兵ブラウンシュヴァイク公クリスティアンは実弟。ゾフィー・ヘートヴィヒは、領地ナッサウではなく、オランダを活動拠点としていた夫エルンスト・カシミールに従ってアルンヘムに住みました。

夫のエルンスト・カシミールが戦死した1632年、スウェーデン軍の参戦でドイツの地をさらに軍隊が闊歩するようになったこの時期、ドイツのナッサウ伯たちは協力してナッサウの領地を戦禍から守ろうと奔走していました。息子たちはオランダ戦役に忙しく、ゾフィー・ヘートヴィヒはドイツに向かい、自ら領地ディーツの摂政を務めるようになります。ナッサウ伯領の軍隊通行の禁止を求めて、ゾフィー・ヘートヴィヒは皇帝や近隣の諸侯に宛てて相当数の手紙を書いています。

その過程で、ウィーン宮廷で地位を得つつあった義弟の勧めに従い、ゾフィー・ヘートヴィヒはカトリックに改宗しました。しかしこれは実はある意味「信仰属地主義」を逆手に取った裏技で、「女性である自分は単なる後見であり為政者ではない」との論理で、ナッサウ・ディーツ領はあくまで被後見人である長男ヘンドリク一世カシミールの信教(カルヴァン派)に属するべきと主張しました。つまり自分ひとりが改宗するに留め、領地全体の信教はプロテスタントのままに保ったといえます。

そのおかげで新旧教両方に顔が利き、あるときスウェーデン軍がその領地内を荒らした際には、スウェーデン宰相オクセンシェルナから平謝りの手紙をもらったとか。

エリーザベト・ユリアナ・フォン・エアバッハ

Jacob Duck - Card Players and Merrymakers

残念ながら本人の肖像は残っていませんが、こんなイメージでしょうか。

1600/1/22-1640/5/29

スウェーデン軍ヨハン・バネール元帥の二番めの妻。お互いに再婚。

最初の夫と死別すると、エリーザベト・ユリアナはヨハン・バネール元帥の妻カタリナの侍女となりました。病床のカタリナを看護したエリーザベト・ユリアナに対し、カタリナは自分の死後バネール元帥と結婚してほしいと言い残して亡くなります。

エリーザベト・ユリアナは、夫をうまいことおだてたりなだめたり、操縦するのに長けていたようです。バネール元帥は、彼女との結婚後にキャリアハイを達成、国王グスタフ二世アドルフ亡き後のスウェーデン軍を立て直しました。また、常に戦場に付き従っていたエリーザベト・ユリアナ自身も、兵たちから「おっ母」として慕われました。エリーザベト・ユリアナが病死すると、バネール元帥は元帥を辞めると大騒ぎし(これは周りに懇願されて思い直す)、深酒に走ってアル中になってしまい、ちょうど1年後に肝硬変で急死します。

Portratt, Anna Margareta von Haugwitz - Skoklosters slott - 88968

ちなみに、エリーザベト・ユリアナは、戦争孤児になった下級貴族の娘アンナ・マグダレーナ・フォン・ハウクヴィッツを引き取って育てましたが、彼女は長じてカール・グスタフ・ウランゲル元帥の妻になります。貴賤結婚として大反対されたのを押し切っての、当時にはめずらしい恋愛結婚だったとのこと。

アマーリエ・エリーザベト・フォン・ハーナウ・ミュンツェンベルク

Amalie Elisabeth von Hanau-Munzenberg, Portrait als junge Frau

1602/1/29-1651/8/8

ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム五世妃。母カタリナ・ベルギカ(オランイェ公ウィレム一世の六女)を通じて、オランイェ公フレデリク・ヘンドリクは叔父、プファルツ選帝侯フリードリヒ五世とテュレンヌ元帥は従兄弟。

1619年にヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム五世と結婚。しかし当時、義父のヘッセン・カッセル方伯モーリッツは先代の遺言に反して、分割継承するはずのヘッセン領を横取りした挙句、禁じられていた改宗もおこなったとして親族内でもめていました。1627年、結局モーリッツが退位し、夫のヴィルヘルム五世がヘッセン・ダルムシュタット伯に領地を割譲することで決着します。

ところが夫のヴィルヘルム五世は三十年戦争の最中、スウェーデン・フランスと同盟をを結んで一貫してプロテスタント側を支持し、強硬な姿勢を貫いたため、領地ハーナウは皇帝軍に包囲され、夫婦は子供たちを残して亡命を余儀なくされてしまいました。1637年、ヴィルヘルム五世は亡命中のフリースラントで死去。ヴィルヘルム五世は亡くなる前に、まだ年少の長男ヴィルヘルム六世に代わり、フリースラントに連れてきている軍隊の指揮権も含め、アマーリエ・エリーザベトにすべての権限を委譲していきました。

摂政としてアマーリエ・エリーザベトは夫の方針を踏襲し、スウェーデン・フランスと再度同盟を強化することに成功し、ヘッセンの軍隊がそれなりに強力だったこともあって、1640年頃には領地を回復に導きます。それどころか5年後にはさらに攻勢に出て、1627年の割譲を不服として蒸し返し、ヘッセン・ダルムシュタット伯に領地を返還するよう迫って「ヘッセン戦争」を起こしました。そしてこの戦争とウェストファリア条約の交渉に成功し、ヘッセン・マールブルク領を奪還しています。

エリザベート・ド・フランス

Juan Pantoja de la Cruz 011

1602/11/22-1644/10/6

スペイン国王フェリペ四世妃。スペイン語ではイサベル・デ・ボルボン。フランス国王アンリ四世の長女で、ルイ十三世の妹、クリスティーヌの4歳上の姉。

フランス・スペインの二重結婚で、王太子時代のフェリペ四世と結婚。フェリペ三世が薨去し夫が即位した頃、エリザベートとその侍従である詩人ペラルタの不義が噂されます。ペラルタはその噂のせいで暗殺されてしまいますが、彼は後の時代に法医学的にも同性愛者と判明している人物で、王妃の愛人というのは全くのデマでした。エリザベートは、この暗殺の黒幕である王の寵臣オリバーレス公伯爵に恨みを持つようになります。

1640年、カタルーニャ反乱の際が起こるとエリザベートは国王が不在となったマドリード政府での摂政となりました。それまで政治には口出ししてこなかったエリザベートですが、それはオリバーレス公伯爵による妨害のためでもありました。そこで国王の不在を幸いと、エリザベートはマントヴァ公妃ら数名の女性たちと「女性の陰謀」を企て、オリバーレス公伯爵を失脚に追い込むことに成功します。

その後彼女は政治的にも夫のパートナーとなり、主に財政面でフェリペ四世のカタルーニャでの軍事行動を支援しました。しかしそれも長くは続かず、エリザベートは1644年に若くして亡くなります。

クリスティーヌ・マリー・ド・フランス

Christine Marie de France as Minerva, Charles Dauphin

1606/2/10-1663/12/27

サヴォイア公ヴィットーリオ一世アメデーオ妃。イタリア語ではマリーア・クリスティーナ・ディ・フランチア。フランス国王アンリ四世の次女で、ルイ十三世の妹、エリザベートの4歳下の妹。

先代のサヴォイア公カルロ一世エマヌエーレ(クリスティーヌにとっては舅)は、モンフェラート継承戦争、三十年戦争、マントヴァ継承戦争とに相次いで介入していて、その都度サヴォイアはフランス・スペインを味方につけたり敵に回したりと立場を変えてきました。カルロ一世が亡くなり公位を継いだヴィットーリオ一世アメデーオは、マントヴァ継承戦争を早々に解決させると、比較的親フランスの立場を取りました。

兄ヴィットーリオ一世アメデーオのフランス寄りの政策を、その妻のせいだと考えた弟たち(マウリツィオ枢機卿とカリニャーノ公トンマーゾ・フランチェスコ)は、マントヴァののちスペイン軍に仕官していました。ヴィットーリオ一世が1637年に急死し、クリスティーヌは幼い息子たちの摂政となります。クリスティーヌは、スペインに下った枢機卿とカリニャーノ公の帰国を禁じました。彼らはこのままではさらにサヴォイアにフランスの意向が強まると懸念し、「ピエモンテ内戦」を起こしクリスティーヌに対抗します。

しかしクリスティーヌはそもそもフランスにも依らずサヴォイア単独での統治を考えており、サヴォイアの統治権を要求するフランスに対しても譲ることはありませんでした。4年に渡る内戦に勝利すると、クリスティーヌはマウリツィオ枢機卿を還俗させて長女と結婚させ、カリニャーノ公をスペイン軍からフランス軍に転向させるなど、彼らの取り込みをも図っています。その後ちょうどウェストファリア条約の1648年まで摂政を務めました。

サン・バルモン夫人アルベルト・バルブ・ダーネクール

Madame de saint baslemont

1607/5/14-1660/5/22

ロレーヌ公シャルル4世麾下の歩兵将校ジャン・ジャック・ド・アロクールの妻。もともと女性としてはちょっとめずらしい名前。

夫から軍事技術の手ほどきを受けていたアルベルトは、夫がロレーヌ公の遠征に従っている1630年代、地域を徘徊するフランス・スウェーデン・皇帝軍の兵士や、あるいはその兵士崩れたちから領地を守る必要がありました。そこで彼女は夫の兄弟のフリをして領民たちで守備隊を組織すると、自らは「バルモンの騎士」と名乗って、男装で指揮を執りました。その軍事力は高く、住処を破壊された近隣他地域の住民たちが保護を求めてやって来るほどになりました。

フランス国王ルイ13世が死去し王太后アンヌ・ドートリッシュによる摂政政治に入ったのと、夫のジャン・ジャックが戦死したのはほぼ同時の1643-1644年のことです。王太后アンヌは女性の男装を禁じたため、アルベルトも軍服を脱がざるを得ませんでした。さらにウェストファリア条約後には、アルベルトは修道院に追いやられてしまったようです。

ルイーゼ・ホランディーネ・フォン・デア・プファルツ

Self portrait by Louise Hollandine, princess Palatine

自身で描いた自画像

1622/4/18-1709/2/11

プファルツ選帝侯(ボヘミア「冬王」)フリードリヒ五世とボヘミア王妃エリザベスの次女。

それぞれ個性的なフリードリヒ五世の娘たちの中で彼女を取り上げたのは、当時めずらしく「手に職」を持っていたためです。母エリザベスは子供たちに絵画や音楽を習わせましたが、中でも絵画に才能を示したのがホランディーネです。貴族なのであくまで「アマチュア」(絵を売って金銭を得る「プロ」ではないという意味)ですが、宮廷画家ホントホルストに師事し、とくに肖像画には非凡な才能を見せました。ただ、このような性格の絵画なので市場に出回ることはなく、親戚をはじめとした貴族の家に飾られました。また、自分で習わせておきながら、母エリザベスは、娘があまりにも絵画にのめり込むことを快く思わなかったようです。

その後1657年、ホランディーネはフランスに移り住むと、弟エドワルトの影響でカトリックに改宗しました。このことが原因で、母エリザベスとの仲は完全に破綻してしまいます。さらに伯母ヘンリエッタ・マリア(チャールズ一世妃でルイ十三世の妹)の紹介でフランス国王ルイ十四世の支援を得、1659年にモビュイソン修道院に入り、1664年からは院長を務めました。院長となっても変わらず絵を描き続けたとのことです。

Princess Elizabeth, Princess Royal, Abbess of Hervorden (Hertford)

なお、姉のエリーザベトもドイツへ渡り、同じように未婚のまま修道院長となりましたが、ホランディーネと違いカトリックではなくルター派に改宗しています。

スウェーデン女王クリスティーナ

Drottning Kristina av Sverige

1626/12/18-1689/4/19

スウェーデン国王グスタフ二世アドルフの長女。真打ち登場、といって良いかと。

父王の死後、1644年に親政開始、1648年のウェストファリア条約の締結を経て、1650年に戴冠します。しかし、そのわずか4年後には退位し、さらにその翌年には正式にカトリックに改宗しました。処女王エリザベス1世を標榜し、非婚主義を貫いたとして知られます。

平和を志向した聡明な女君主とされる反面、プラハ城からルドルフ二世コレクションを散々に略奪させたとか、呼び寄せた哲学者をことごとく死なせてしまうとか、エキセントリックさを見せる一面も。ここでは映画でご紹介します。

 

古典の『クリスチナ女王』は、スペイン騎士との許されざる恋がテーマなのでまったく史実とは違ったロマンス(グレタ・ガルボの美貌を観るためだけの映画といっても過言ではない)です。『王となった少女』(日本語版はフィンランド映画祭2016のみ)は、百合で売ってますがかなり史実に近づけてあります。

クリスチナ女王(字幕版) (プレビュー) YouTube ムービー  グスタフが本物に似すぎな件。

THE GIRL KING US版トレイラー  眼、がいいですよ。狂気っぽくて。


冒頭で言及した酒保商人女子の2冊はこちら。「おすすめ資料」でもご紹介しています。


※ 文章の一部は『金獅子亭』より転載。